橋本裕の日記
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2002年12月11日(水) マッカーサーへの手紙

 一度行ってみたい町に、北海道の小樽がある。伊藤整や小林多喜二、石川啄木などの文学者がここに住んでいた。石原裕次郎もこの町に住んでいたし、映画監督の小林正樹もこの町に生まれ育っている。

 小林正樹は大正5年小樽市色内町生まれ、小樽中学から早稲田大に進み、卒業後いとこの田中絹代の勧めで松竹の助監督になる。その後出征し、沖縄で敗戦を迎えた。1年間沖縄で収容所生活を送り、ようやく帰ってきた。そのとき、小林の目に戦後の日本はどうみえたのか。後年、小林はインタビューの中でこう答えている。

<日本は極端に民主化していた。誰もが民主化へと向かって進んでいた。誰もが人道主義的自由と組合活動という、かっこつきの民主主義へと突き進んでいた。・・・日本は戦前とまったく変わっていないように見えた。あのとき、人々はこぞって軍部を支持していたのだ。こうした日本人の意識の変化が必ずしも悪いと言っているのではない。ただその変化がどのようにして起きたのかが問題なのだ>

 いまや日本人は天皇にかわり、マッカーサーを崇拝していた。彼のもとに日本各地から、毎日数百通もの手紙や葉書が寄せられた。アメリカの公式記録では、総計44万通以上にのぼる手紙や葉書を読んで処理していた。そのほとんどはマッカーサーを支持し、賛美する内容だった。

 マッカーサーを「生きたる救い主の神」と呼び、「昔は朝な夕なに天皇陛下のご真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、いまはマッカーサー元帥のお姿に向かってそうしています」と書いたものもいた。手紙だけではなく、いろいろの贈り物が山と届けられた。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」の中でこう書いている。

<マッカーサーは釈迦のような慈悲の持ち主と讃えられ、孔子の「論語」に登場する「遠来の友」にもたとえられた。また、日本を悪夢のごとき戦争から救ったとして崇められ、外国人による占領という未知の事態におびえていた日本人に、希望と幸福を与えたと感謝された。市井の男女が、自分たちがかって軍国主義者であったという罪を、まるで聖職者にたいするようにマッカーサーに告白し、精神科医にたいするかのように心の奥底の恐怖や希望をうちあけたのである>

<あらゆる階層の日本人が、それまで天皇にしか抱かなかった熱狂をもって、この最高司令官を受け容れ、ごく最近まで日本軍の指導者に示してきた敬意と服従を、GHQに向けるようになったのである。こうした行動様式は「民主主義」とは新しい流行にすぎず、古い日本的な従順さの上に新しい衣装をまとっただけではないかという懸念を裏付けるように思われた>

 さて、小林正樹は昭和27年「息子の青春」監督デビューし、以後、戦争の非情を描いた「人間の条件」、長編記録映画「東京裁判」、世界的に評価された「切腹」などを作った。寡作だが、その作品はいずれも重厚で、社会の中で苦悩して生きる人間の奥底をしっかりと見据えている。

<今日の一句> 琵琶の花 咲き初めにけり 山白し  裕


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