橋本裕の日記
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2002年12月09日(月) 結婚まで

29.K子からの電話
 翌朝、私はいつものように5時前に目が覚めた。隣で寝ているS子の寝息をしばらく聞いていた。カーテンの隙間から、朝の日ざしが差し込んでいた。向こう向きに寝ていたので、顔は見えないが、裸の背中越しに乳房のふくらみの一部が見えた。

 私は裸のまま起き出すと、浴室へ行って、シャワーで汗を流した。頭を洗い、髭を剃り、歯を磨いた。日曜日の朝のぜいたくは、時間に追われることがなく、こうしてゆっくり身支度ができることだ。いつもはコーヒーを入れて、トーストを食べるのだが、今日は外へ行きたかった。

 寝室に戻ると、S子が同じ姿で眠っていた。私は彼女のはだかの肩を揺すった。目を開けたS子の表情がはっきりしなかった。
「出かけるからね」
「どこへ?」
「喫茶店でモーニングを食べようかと思って」
 彼女の目の焦点が合ってきた。
「角の喫茶店ね」
「うん、先に行っているよ」

 喫茶店の名前は「田園」だった。窓際の席に腰を下ろすと、モーニングを注文した後、持参した梶井基次郎の小説集を開いた。出がけに本棚から拾ってきた本だから、暇つぶしで読むだけである。「檸檬」を半分ほど読んだところで、コーヒーとトーストが来た。

 運んできたアルバイトらしい若い女の子が、ちらりと私を見た。愛嬌のある丸顔や白い八重歯に見覚えがあった。同じアパートに住んでいる音大の学生だった。たまにゴミを捨てに行って、顔を合わせることがあった。学費を稼ぐために、ここでアルバイトをしているのかも知れない。

 席は大方満席だった。いつ相席になるかもしれない。私はなるべく早くすませて喫茶店を出ることにした。アパートの扉を開こうとして、浴室の水の音に気付いた。S子がシャワーを浴びているようだった。扉のノブにかかった手を引っ込めて、私はまた歩き始めた。近所にある神社の境内まで散歩しようと思った。

 考えることは、どうしたらS子から自由になれるかということだった。このまま外出することも一つの選択肢だったが、そうするとS子はまた逆上するかもしれない。せっかく向こうから別れ話と切り出してきたのだから、ここはなんとか円満に別れたかった。

 境内で30分ほど時間を潰してアパートに帰ってきた。S子はすでに身支度を終えて出かけたようで姿がなかった。私は居間のガラス戸を開けて、ベランダへ出た。深呼吸を一つしてから、居間のソファに腰を下ろすと、しばらくぼんやりと瞑想に耽った。そのうちにS子が帰ってくるだろうと思った。

 しかし一時間たってもS子は帰ってこなかった。先ほどまで自由になりたいばかりだったのが、勝手なもので、またそろそろ彼女の体が欲しくなっている。そして昨夜の痴態を反芻しているうちに、股間のものがふくらんでいた。彼女と別れるためには、この欲望を断たなければならない。しかしこの妄想を断ち切るにはどうしたらいいのだろう。やはり自分で処理をするのが一番いいのだろうか。

 私はトイレに行って、自分の物をとりだした。そして少ししごいてみたが、思ったほどの快感が募ってこなかった。あきらめてソファに帰ったところで、電話の呼び出し音がなった。しびれをきらしたS子が喫茶店から電話をよこしたに違いない。そう思って、おそるおそる受話器を取りあげたが、S子ではなかった。

 明るく弾んだK子の声だった。
「おはようございます。起きてみえました?」
「ええ、とっくに」
「今日も部活ですか。それとも他の方とデートですか」
「いや、まさか・・・」
「私これからピザを作るんです。お昼頃、持っていきますね」
「ここが分かりますか」
「住所がわかりますから。車で行きます」

 私が対応に迷っているうちに、電話は一方的に切れた。K子の登場は予想もしていない事態だった。こうなった以上はなるべく早くS子を帰さなければならない。最悪の場合は、S子と外出しよう。K子はがっかりするだろうが、いきなり押しかけてくるK子も強引過ぎる。

 私はあわてて寝室に足を運んだ。まだそこに女の生々しい匂いが残っているようで、ガラス戸を引いて外気を入れ、皺になったベッドのシーツを直した。それから居間のソファに戻り、時計を眺めながら待ったが、S子はお昼近くになっても姿を現さなかった。

<今日の一句> ほのかなる 匂ひはいずこ 野菊咲く


橋本裕 |MAILHomePage

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