橋本裕の日記
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「福翁自伝」のなかに、諭吉が道を歩きながら、向こうから歩いてくる通行人を相手に、次々と異なった態度で道を尋ねる実験をする場面がある。こちらが尊大にかまえて、「こらこら、そのもの・・・・」という態度に出ると、たいがいの相手は下手に出て、腰が低くなる。
反対にこちらが揉み手をして腰を低くすると、相手の方が反り繰り返り、尊大な風を見せる。諭吉はこうした様子を観察して、日本人というのはこれでは駄目だと考えた。何がいけないかというと、自分というのもがない。だから常に相手を見て、卑屈になるか、横柄になる。
横柄さは卑屈さの裏返しである。自分に自信がないから、相手を見下したり、空威張りをしたりする。相手の出方によって自分の振る舞いを変えるのは当然だが、それはあくまで自分というものを保った上で行うべきことだろう。まるで別人格のように上がったり下がったりしていては情けない。
諭吉はこうしたことから「独立心」と「自尊心」を養う教育の必要性を説くわけだが、私はこの教育理念は今の日本人にも必要ではないかと思う。江戸時代や明治時代以上に、現在の日本人は自分を見失い、自信喪失しているのではないだろうか。
外国人の残した文章を読むと、明治時代の日本人を意外にほめている。それは彼等が何か人間として背骨になるものを持っていたからだろう。福沢諭吉のような立派な個人主義者からみれば不満だろうが、それでも百姓、町人、武士たちの多くはそれぞれのモラルを持ち、貧しさのなかでやさしい情愛や毅然とした気骨を持って生きていたようだ。
私は気骨という言葉が好きだ。これを別の言葉で言えば自尊心であり、プライドということになる。人間はこのプライドを失ってはいけない。どうしていけないのか。それは悪や不正を平気で行うようになるからである。彼がプライドとともに失うのは良心というこの世で一番大切な宝である。
自尊心やプライドといえば、中島敦の「李陵」が思い浮かぶが、そこに描かれているのは排他的で独善的な唯我独尊の自尊心である。ほんもののプライドは決して他人を傷つけない。なぜなら自分を尊重する人間は、同時に他人の人格をも尊重するからだ。プライドは傲慢や空威張りとはまったく違っている。子供を立派な人間にするために、そうした本当の自尊心を育てることを、私たちは心がけなければならない。
プライドの高い人間を私たちはともすれば敬遠する。しかし、それは私たちが自分にプライドが持てないからである。卑屈な人間は平気で人を裏切り不正を働くが、プライドのある人間はおおむね嘘をつかないし不正を行わない。不正や嘘を自分に許すことができないからだ。私はプライドの高い人間が好きだし、信用もしている。
<今日の一句> 北風に 少女ほほえみ 匂ふ春 裕
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