橋本裕の日記
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一昨日の毎日新聞の投稿欄の文章によると、韓国では「勉強ができる、できない」とは言わずに、「勉強が上手、下手」と表現するのだという。日本ではこういう言い方はしないので、何か新鮮だった。
こういう言い方をすると、勉強もテニスや俳句などのお稽古ごととかわらないことになる。あるいは釣りやマージャンなどの遊びの世界にも通じるようで、楽しそうだ。「できる、できない」という頭ごなしの二分法的な言い方よりもやる気が出て、教育効果がありそうだ。勉強もテニスやゲームと一緒で、練習すればそれなりにうまくなりそうな気がしてくる。
英語でも「できる、できない」という言い方はしない。「be good at」を使って、「得意だ、得意ではない」という言い方をする。あるいは単に「do」を使って、「do you speak」などと表現し、「can」は使わない。勉強もテニスやトランプ、歌や踊りとかわらないのは韓国と同じである。おそらく日本以外の多くの国がこのタイプではないかと思われる。
オランダでは勉強ができないのも個性のうちだと考えて、教師は無理に矯正したりしないということを読んだことがある。勉強にもさまざまなものがあり、人間の生き方もさまざまなのだから、あれもこれも上手になる必要はないし、上手下手があってあたりまえだと考えるのだろう。
勉強を自動車の運転のような「技能」として考えてみることもできる。自動車の運転にも上手下手があるが、出来ない人はほとんどいない。だから数学や国語や英語も、「出来る、出来ない」ではなくて、「上手に使えるかどうか」が問題なのである。
私は学校は社会で生きていくために必要な技術やマナーを学ぶ場であればよいと思っている。勉強に必要なモチーフは狭苦しい教室ではなく、むしろ生きた社会体験のなかで養われる。したがって学校も社会の中に足場を持たなければならない。やる気のない生徒ばかり集めた託児所や、入試のための受験勉強をするだけの専門施設であってはならない。
自動車の運転で思い出したことがある。アメリカの高校には、自動車免許を取得できるコースが学内に設けられていて、ほとんどの高校生は在校中に車の免許を手に入れるらしい。日本の高校生のように、こそこそ免許をとりに行って、発覚したら特別指導というのとはわけが違っている。
<今日の一句> 小春日に 山茶花咲きて なつかしき 裕
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