橋本裕の日記
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2002年11月23日(土) 「敗北を抱きしめて」

 10日ほど前に学校の図書館でジョン・ダワーの書いた「敗北を抱きしめて」を見つけて、それから毎日少しずつ読んでいる。ダワー氏は1938年生まれの歴史学者である。マサチューセッツ工科大学の教授で、「吉田茂とその時代」などの著作をもつ日本戦後史の専門家だ。

 ダワー氏はもともと森鴎外について博士論文を書くつもりでいたくらい文学や文化、特に人間の複雑さに興味を持っていた。型にはまった伝統的な方法ではなく、人間の「はらわた」からこみ上げてくるような感情、つまり敵を悪魔と思わせ、男達を殺戮行為へと導く感情についても関心を持っていたという。こうした氏の資質が、ピューリツア賞を受賞したこのユニークな歴史書を書かせた。

 本を書くにあたって、公式文書や教養のあるエリートの書いたものばかりでなく、映画、漫画、マスコミ、歌、宣伝文句、その他、普通の人々の思いが観察できるものなら何でも注意を向けたという。たしかにこの本を読んでいると、まさに日本のある時代の息吹きがその体温とともに生き生きと感じられる。それがこの本の最大の魅力だと言ってもよいくらいだ。

<この本の英語版が出版されて間もない頃、森喜朗首相が、日本は世界のほかの国や文化と違って、「天皇を中心とする神の国だ」という悪名高いスピーチをおこなった。私は、これに非常に腹が立った。なぜか?

 これは、私が研究者として理解している日本ではないからである。私は日本に住んだことがあり、多くの日本人を知り、尊敬もしている。そうした一人の人間としての私が理解している日本でも、それはないからである。

 森首相が述べた「日本」は、戦争中の宣伝屋たちが宣伝した「日本」である。それは歴史の特定の時期の、それもひどい時代の「日本」であり、国際的に大きな誤解と害悪を招きかねない、自国中心の政治的イデオロギーの色彩を帯びた「日本」である。

 私の見る「日本」は画一的でもあるが、同時に複雑で矛盾に満ちた「日本」である。それは私の国アメリカや、私の同僚たちが研究している他の国や社会とまったく同じことなのである。これが、アメリカでこの本が多くの賞を獲得した理由だと私は思う>(前書き、「日本の読者へ」)

 氏のこうした文化的な普遍主義は、彼が若手の研究者の頃体験したベトナム戦争から多くを学んだからだろう。氏はこう書いている。

<1960年代の後半から70年代のはじめ、若手の研究者としての私が人並みになった頃の祖国アメリカは、騒然とし、分裂していた。それは、アメリカ社会が深いひびわれと苦悩をかかえていることを示すものであった。アフリカ系アメリカ人たちは公民権をかけて闘い、インドシナではアメリカの戦争マシーンが異常な乱行にふけっていた。

 こうして私が日本と日米関係を研究する歴史家となったとき、私の心には戦争と平和、勝利と敗北、社会における正義といった問題が渦巻いていた。それは私にとって、非常に重みのある問題だった>

 ジョン・ダワーのこの本は、当時の雑誌や新聞から丁寧に資料を拾っていて読み応えがある。日本人の書いた本より、面白くて読みやすく、私の心を深いところで揺さぶり、共感させてくれる。その理由は、そこに西洋的な客観的実証精神と、普遍的な人間理解に基づく良質なヒューマニズムがあるからだ。

(今日から1泊2日で毎年恒例になった「万葉の旅」に出かける。今回は紀伊半島の白浜に泊まるつもりだ。天候がゆるせば熊野古道を歩いてみたい。明日の日記で旅の報告をするつもりだが、更新は深夜になるかもしれない)

<今日の一句> 降りしきる 紅葉そのまま 髪飾り  裕


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