橋本裕の日記
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2002年11月22日(金) 復興の蔭で

 1947年10月11日、34歳の山口良忠という判事が東京の自宅でひっそりと息を引き取った。死因は栄養失調による餓死だった。彼は闇市で不法に手に入れたものを食べることを拒否した。配給された米を子供たちに食べさせると、彼と彼の妻は塩水以外に口にするものはなかったという。

 山口判事は東京地方裁判所の小法廷で、闇市にかかわった軽犯罪を多く裁いていた。たとえば出征したまま帰ってこない息子の帰宅を待ちわびている72歳の老婆は、義理の嫁を空襲で失い、二人の孫に食べさせるため、着物などを売り払い、その金で闇市食料を買っているところを逮捕された。山口判事は法に従ってこの老婆を刑務所に送る判決を下さざるを得なかった。

  1946年に闇取引で逮捕されたのは122万人、47年には135万人、48年には150万人にのぼっている。しかし、闇取引をしなければ人々は生きていけなかった。山口判事自身の家庭も、生活のための物資を闇市に頼らざるを得なかった。もし、法を厳密に守り、配給だけに頼っていたら、子供たちまで餓死しなければならない。そこで、山口判事は妻と子供たちには闇の食料を口にするのを許し、自分には禁じたのだという。

 戦後日本の経済復興の影に、こうした悲惨な現実が存在していた。1945年11月7日の「朝日新聞」に「私は自殺しそうだ」と題する投書が掲載されている。その一部を引用しよう。

「私は最早自殺を決心しました。そして無能、無慈悲な政府を恨んで死んでいきます。妻や子供の身の上は隣組長様や隣保の人々にそれとなく頼んでおきました。せめてうすい粥でも食べて、働けるだけの食料を出して下さい。私たち無教育の者にはむつかしい理屈はわかりませんが、米も麦も充分あるような気がします。御覧なさい。一升80円も出せば一石や二石の米麦はたちどころに集まって参ります。当路の高官達よ、人の辛さは三年でも辛抱する冷淡な根性を捨て、少し人間らしい心をもって下さい」

 これらの年の冬には上野公園の周辺だけで毎年100人近い浮浪者が死んでいた。また栄養不足は病気をはびこらせた。1947年には14万人以上の人々が結核で死んでいる。そのほかに、コレラ、ジフテリア、ポリオ、脳炎などが流行し、毎年数万人の死亡者を出した。

<敗戦後、疲労感と失望感が数年間も続いたが、これは敗北による心の傷が長引いたというよりは、むしろ戦時に蓄積した疲労が、戦後の指導層の無能とあからさまな腐敗によって増幅されたためであった。長い歴史の尺度で見れば、敗北からの日本の復興は急速であった。しかし、一般の民衆にしてみれば、戦後復興はあまりにも進展が遅く苦痛に満ちたものであった>(ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」)

<今日の一句> 粧おえる 山の錦に 時忘る  裕 


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