橋本裕の日記
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敗戦の後、およそ650万人の日本人がアジアと太平洋の各地にとり残されていた。そのうち350万人が陸海軍の兵隊だった。復員ははかどらず、天皇の玉音放送から一年後の1946年9月の段階でも200万人以上の日本人がまだ帰国を果たしていなかった。さらに54万人が行方不明だった。
満州だけでも、17万9千人の民間人と、6万6千人の軍人が、降伏後の混乱と寒さの中で命を落としている。アメリカと日本当局の推計では、160万から170万の日本人がソビエトに抑留された。抑留は長期におよび、彼等のなかの30万人ほどの生死が結局わからなくなった。ソビエト政府はシベリヤに埋葬された日本人4万6千人の名簿を公表しただけである。
敗戦後、外地で飢えや寒さ、強制労働による体力の消耗によって多くの日本人が望郷の思いに駆られながら死んでいった。しかし、命からがら外地から無一物で帰ってきた兵隊も、祖国へ帰ってきて、必ずしも歓迎されたわけではない。食糧難は内地も同じだった。さらに外地での日本軍の残虐行為が明らかになってきた。そうした雰囲気の中で、肩身の狭い、つらい思いを噛みしめなければならなかった復員兵も多かった。1946年6月9日の「朝日新聞」の投書を紹介しよう。
「私は、去る5月20日南方より復員しましたが、わが家は焼かれ、妻子は行方不明、わずかばかりのお金も高い物価のために使い果たし、見苦しい姿になりました。誰一人としてやさしい言葉をかけてくれるものはなく、かえって白眼視するばかり。仕事とてもなく思い悩んだはてに、私はとうとう悪魔の虜になりました・・・・」
彼は暗い通り道で若い男を呼び止め、物品を奪おうとしたが、その若い男が非番の警官だった。ところがこの警官は彼を逮捕しようとはせず、「困難は乗り越えることができるから、自信をもちないさい」諭して、お金と自分の衣服をくれたという。彼は感激して、真人間になると世間に誓うために投書したのだという。彼の場合は地獄に仏だったが、こんな奇跡がそうあることではない。犯罪に走った兵隊くづれも多かったに違いない。
戦争中は「兵隊さんのおかげ」といえば、もちろん良い意味で使われた。兵隊さんがお国を守っていてくれるおかげで、祖国で安全に暮らしていられるという感謝の言葉だった。その同じ言葉が、敗戦後はアイロニカルで侮蔑的な別の意味を帯びることになった。
兵隊さんのおかげで、日本は戦争に巻き込まれ、そしてあえなく破れた。おかげで戦後はひどい貧乏暮らしを堪え忍ばなければならない。戦時中、兵隊さんの株が高かっただけに、その暴落ぶりは目を覆うばかりだ。お国のためと思い、命を投げ出して戦った結果がこれである。これでは兵隊もたまらなかっただろう。「特攻くづれ」などという言葉が生まれたのもこの頃だった。
ところで、敗戦と同時に困難な状況に置かれたのは、旧植民地出身の兵隊たちも同じだった。場合によっては日本人以上に困難な立場に立たされた。たとえば、B級、C級裁判の有罪率、死刑判決率は、日本人より、台湾、朝鮮半島出身者が、割合として著しく多い。
どうしてこのようなことになったかというと、日本軍が意図的に彼らを捕虜収容所の監視員に当てたからだ。たとえば戦犯となった朝鮮人148名のうち、捕虜監視員として責任を問われた人はじつに129名もいる。日本人は彼等の質が悪かったので、捕虜虐待が起こったのだと、口裏を合わせて言い逃れをしたらしい。
なお敗戦時、強制連行されて日本にいた朝鮮半島の人々は135万にのぼった。1946年までに93万人が帰国したが、彼等を待っていたのは分断された祖国に襲いかかった内戦の悲劇だった。困難に直面した朝鮮半島の人々の中には、日本に再入国をしようとした人もいたという。日本が引き起こした15年戦争の悲惨は、これらの人々の上にいっそう過酷であったことを忘れてはならない。
<参考文献>「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著、岩波書店) <参考サイト> http://216.239.33.100/search?q=cache:Nj_ivenVVEwC:www5.sdp.or.jp /central/gekkan/chousenjinsenpan.html+%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%
<今日の一句> 枯葉散る 夕日の道に 猫が死ぬ 裕
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