橋本裕の日記
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2002年11月18日(月) 結婚まで

26.乾杯のとき

 S子が私との別れ話を口にしたのは初めてのことだった。彼女とどう手を切ろうかと考えていた私に、これは願ってもない成り行きだったが、そうした心のうちを見せてはならなかった。S子は敏感に感じ取り、態度を硬化させるに違いなかった。

 しかし、私は自分の表情をとりつくろう必要を感じなかった。なぜなら、私はこのとき、何かしみじみとした愛情のようなものをS子に抱いたからだった。考えてみれば、彼女は私に一切を与え、心までゆだねてくれた。

 私はこれまで愛情もないまま、彼女を抱き、彼女をむさぼった。自分の欲望のはけ口として扱っていた。彼女の涙で濡れた顔を眺めているうちに、私は自責の念にとらえられた。そしてもの悲しい哀れさを感じた。こんなことは初めてだった。

 S子はハンカチを取り出し、頬を拭き、鼻をかんだ。私は立ち上がり、ビールのグラスを片づけると、冷蔵庫の扉を開けて葡萄酒をとりだした。二個のワイングラスをテーブルに置いて、手前のグラス一杯に葡萄酒をついだ。そして、グラスの葡萄酒を、彼女のグラスに半分注いだ。
「最後の晩餐みたいね」
 彼女はハンケチをしまいながら、涙を溜めた目で笑った。

「こうして、片方のグラスから、もう一つのグラスに同じ酒を分けるのが西洋の正式な飲み方らしいね。毒が入っていないことが相手にわかるだろう。乾杯の時、グラスをカチンとぶつけるのは、その名残らしいよ」
「怖いのね」
「飲む前に必ずグラスをのぞき込んで、匂いをかいだり、酒の色を眺めるだろう。これも毒が入っていないかどうか、調べるためかもしれないね」

 私はそんな講釈をしながら、ちびちびと葡萄酒を飲んだ。ビールとチャンポンになったせいか、あるいはようやくS子から解放されそうだという安堵のせいか、私の心身はすぐにアルコールに支配されて、睡魔が襲ってきた。

「葡萄酒は好きなだけ飲んでいいよ。帰るとき外から鍵をかけてくれるかい。前のように、郵便受けの中にいれておいてくれればいいよ」
 私は鍵をテーブルに置くと、もう一度S子の前髪に手を伸ばして、S子の顔を眺めた。彼女も黙って私を見つめた。唇の端がすこし歪んでいた。

 もうこれで見納めかと思うと、正直言って未練が残った。私は顔を近づけ、彼女の額にキスをした。それから、彼女を残して、寝室に歩いた。服を脱いでベッドに倒れ込むと、たちまち前後不覚に墜ちた。

<今日の一句> くれなゐの 紅葉葉光る 風のなか  裕


橋本裕 |MAILHomePage

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