橋本裕の日記
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2002年11月15日(金) 君死にたまふことなかれ

 与謝野晶子の有名な反戦詩『君死にたまふことなかれ』は、1904(明治37)年、日露開戦の年の『明星』九月号に発表された。「旅順の攻囲軍にある弟宋七を嘆きて」というサブタイトルがついていて、新婚ほやほやの若妻を残して応召した老舗の跡取り息子の弟の身を案じ、どうか無事に帰ってきてほしいという願いがこめられている。

  あゝおとうとよ、君を泣く、
  君死にたまうことなかれ、
  末に生れし君なれば
  親のなさけはまさりしも、
  親は刃をにぎらせて
  人を殺せとをしえしや、
  人を殺して死ねよとて
  二十四までをそだてしや。

  すめらみことは、戦ひに
  おほみづからいでまさね、
  互に人の血を流し、
  獣の道に死ねよとは、
  死ぬるを人の誉れとは、
  おほみこころの深ければ
  もとより如何で思されん

 晶子のこの詩に文芸批評家大町桂月は、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」とかみついた。これに対して晶子は、『明星』十一月号に「ひらきぶみ」を発表した。現代文に直したものの一部を紹介しよう。

「私の『君死にたまふことなかれ』という歌は戦地にいる弟への手紙のはしに書き付けてやったものです。それがどうしていけないのですか。あれは『歌』なのです」

「この国に生まれた私は誰にも劣らない愛国心をもっております」
「堺の私の実家の父ほど『天子様を思い』御上の御用に自分を忘れて尽くした商売人はありません」

「私は『平民新聞』の議論など、ひとこと聞いただけで身震いがする者です」

「女は元来戦争が嫌いなのです。だが、戦争をするのは国のためにやむを得ないのだと聞かされると、では戦争に勝って欲しい、勝って早く戦争を終わらせて欲しいと願う者なのです」

「大町桂月氏は私の詩にたいそう危険な思想があると仰せになりますが、当節のようにむやみと死ね死ねと言ったり、なにか論じる際にやたらと忠君愛国の文字を使ったり、畏れおおい教育勅語の言葉を引用したりする方が、むしろ危険なのではないでしょうか。私の好きな王朝文学にはかように死を賛美する言葉は見当たりません」

「いま新橋や渋谷などの駅へ行くと、出征軍人の見送りにきた親兄弟、親類、友達などがみんな兵士に向かって『無事で帰れ、気をつけよ』と言い、万歳を叫んでいます。つまり、みなさんは私の歌と同じように『君死にたまふことなかれ』とおっしゃっているのではないでしょうか。見送りの人々の声がまことの声なら、私の歌もまことの声から発したものなのです」

 愛国的な評論家から批判されたことで、かえってこの詩の評価は高くなり、多くの人々の共感と拍手喝采を得た。そして晶子自身も、多くの庶民の声を代弁して、反戦平和のヒューマニストとしての道をまっすぐに歩んでいく。

 1917年(大正6年)に発表した評論『私達の愛国心』では、「国家主義の上に築かれた国家は個人と衝突するとともに他の国家と衝突する。則ち戦争の予想される不安定な国家である。低級な国家である」と国家主義を否定している。

 さらに、学校の軍事教練をやめよと主張し、シベリヤ出兵に際しては『何故の出兵か』を書いて反対し、海軍軍備制限をめざすワシントン会議を支持し、軍事力縮小に反対する「軍人者流の浅薄な議論」を批判している。この頃は、大正デモクラシーの隆盛した時代で、晶子ならずともこうした議論はさかんであった。民衆の気分も大方こうしたもので、その先頭に立って、晶子は「平和主義」「反国家主義」「反軍国主義」の旗を勇ましく、情熱的に振っていた。

 ところが、1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、やがて満州国という日本の傀儡国家が樹立されると、日本の国論は一変して、軍国主義賛美に傾き始める。そして、これと軌をを一にするように、晶子も侵略戦争を手放しで賛美し始める。

「私は以前から、支那の国民と其の支配者たる各種の軍閥政府とを別々のものとして考えている」(昭和6年『東四省の問題』)

「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」(昭和7年『支那の近き将来』)

「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」(昭和7年『日支国民の親和』)

「私の常に感謝している事が幾つかある。中にも第一に忝なく思う事は、日本に生まれて皇室の統制の下に生活していることの幸福である。・・・日本は同じ法治国と云っても、権利義務の思想のみを基本とする国でなく、先史時代より皇室を中軸として其れに帰向する国民の超批判的感情に由って結合された国である」(昭和7年『日本国民たることの幸ひ』)

 同じ年に晶子の夫の鉄幹も、軍歌『爆弾三勇士』や『皇軍凱旋歌』といった軍歌を作って、国民の戦意昂揚のためにつくした。

  忠魂清き香を伝え
  長く天下を励ましむ
  壮烈無比の三勇士
  光る名誉の三勇士

 日中戦争の従軍体験を持つ、”浪速の反戦詩人”井上俊夫氏は「君まちがうことなかれ」の中で次のように書いている。

<つまり晶子は『君死にたまふことなかれ』を書いた頃より一貫して皇室尊崇者としての立場を守り、皇国史観に基づく歴史観、世界観、戦争観、軍隊観を持ち続けてきたのである。ヒューマニズムに基づく反戦平和論を唱えていた一時期でも、晶子が抱くこうした基本的なイデオロギーは変わらなかったものと思われる。これでは晶子が、日本の中国に対する侵略戦争の実体を見抜けず、それを支持したのも当然と言わねばなるまい>

 たしかにその通りだと思うが、満州事変を境に豹変したのは、大方の文化人や大新聞の論調も同じだった。与謝野晶子のように平和を愛好していた筋金入りのヒューマニストたちまでがこぞって転向したのである。その背後には、平和主義から軍国主義へと傾斜する世論の変化があった。状況によっては私たちも又、いつ軍国主義者、国家主義者に豹変するかも知れない。その恐れが充分あることを、今から肝に銘じておくべきだろう。

(参考サイト) http://www.vega.or.jp/~toshio/kimi.htm

<今日の一句> 通勤の 紅葉並木の ありがたさ  裕

 通勤で木曽川の堤を走る。木立の紅葉が見事である。この道を通勤で走るようになって5年目になる。春には桜が満開になり、秋は見事な紅葉の並木である。あと何年、この道を通勤することになるのだろう。


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