橋本裕の日記
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「大東亜共栄圏の思想」(栄沢幸二著、講談社現代新書)によると、「非常時」という言葉がしきりに使われるようになったのは、1932年(昭和7年)の5.15事件直後からだそうだ。こうした物騒な世情についての批評が、この頃の雑誌や新聞に掲載されている。
<国民の信頼と議会の支持とを前提とする「独裁政治」(非常の権力)は「国難に処すべき最も適当な方策」(非常の手段)である。われわれは政党政治の弊害をあまりにも多く見せつけられており、国民の信用は地に墜ちているといっても過言ではない。だがしかし、「独裁政治」のような「危道」を選ばず、たとえ急激な大改革を断行するには不敵であっても、「立憲政治の常道」を踏んで、「困難打開の途」に向かうことを希望する>(美濃部達吉、1933年「中央公論」)
<率直にいへばこれ等の非常時メーカーはある意味で軍部であり、非常時グローアーは朝野の当局者たちである。そしてメーカーとしての軍部はあらゆる社会事相の緊迫を機会に国民大衆を覚醒せしめんとして笛を吹き、グローアーたる朝野の当局者たちは笛の音に身振り手拍子を合わせて熱心に踊り抜いているのである。笛吹く人、踊り抜く人、色とりどりの熱と力を発揮しているこれらの人々の全貌は一口では覗き尽くせない>(1934年1月7日「毎日新聞」)
「非常時」が流行語になるにつれて、「非常時には非常手段もやむを得ない」という風潮が広がっていった。どんな強硬手段も、「非常時なのだから」ということで容認され、また、これを口実にして、軍部独裁や国粋的イデオロギーが勢力を拡大していく。
こうしたなかで、大正時代に隆盛した民主主義や自由主義の思潮は適性思想だとして駆逐されていた。徳富蘇峰が会長を勤める大日本言論報告会が「聖戦」遂行のための思想を鼓舞し、こうして「非常時」を合い言葉に思想統制がゆきわたっていく。ところが同会の常務理事の野村重臣は1943年に、今ほど言論の自由が保障されている時代はないと述べている。
<われわれの言論はあらゆる方面におきまして自由主義者が圧迫しておったのであります。それからみますと、今日はまことに言論の自由なる時代でことを私共はむしろ感謝してをるような次第であります。いままでは西洋人の言ったことしか言えなかったのであります。即ち、ヨーロッパ的なものの考え方に反するようなことをいへば、大学においても、ジャーナリズムにおいても、或いは出版界においても、さういふ言論が一切封鎖された。・・・今日ほど自由に言論の活躍し得る時代はないと私は確信してをります>
大正デモクラシーの時代にあって、たしかに右翼的国粋主義の思想家は世間では肩身の狭い思いをしていた。それが昭和に入って、世界大恐慌や戦争という未曾有の「非常時」をてこに、みるまに息を吹き返したのである。このなりゆきは、どこか今日の状況に似ているようではないか。
<今日の一句> 白鳥も 羽を休める 足羽川 裕
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