橋本裕の日記
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24.逃げる男
S子が改札口の向こうに消えていくのを眺めて、私はほっとした。両手に抱えていた重い荷物から、とにかくいったんは自由になった解放感だった。私は軽い足取りでアパートへ帰ってきた。
さっそく風呂を沸かした。狭い浴槽なので、自由に手足を伸ばすことはできなかったが、一人で心ゆくまで湯に浸かっている気分は最高だった。しかも明日の日曜日は久しぶりに何も予定が入っていなかった。
「あぶなかったな」 私は湯の中で顔を洗いながら、つぶやいた。一人暮らしをするようになって、自分でも驚くような大きな声で独り言を言う癖がついた。その癖が人前でも出るので、矯正しようと思っていたが、なかなか治らない。 「とにかく、よかった。今日のところは、上出来だ」 気がゆるんだせいか、独り言が多かった。
ぬるめのお湯に長いこと浸かっていた。S子と一緒にいて強いられた緊張が、快くほどけていくのがわかった。湯の外に脇を出し、片手を浴槽の横に垂らして、リラックスした姿勢で鼻歌をくちずさんんでいると、眠気が忍び寄ってきて、うつらうつらしていた。
チャイムの音で目が覚めた。一回だけでなく、何回かしていたようだ。気付いてからも、立て続けに鳴っていた。そうしたヒステリックな鳴らし方をするのはS子しか考えられない。私は湯舟に立って、小窓を開けた。
「どなたですか」 「私です」 S子が窓の方に寄ってきた。外灯の明かりの中に、S子の顔が蒼白く浮かんでいた。 「待ってくれないか。入浴中なんだ」 「わかったわ」
私は洗い場で急いで頭や体を洗った。シャンプーが目にしみて痛かった。先ほどまでの長閑な気分は吹き飛んでいた。それにしても、何だってS子は引き返して来たのだろう。これでまた、貴重な週末が潰れるのかと思うと、泣きたい気分だった。
<今日の一句> 秋寒に コスモスの花 乱れ咲く 裕
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