橋本裕の日記
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日本が西洋列強に負けじと、富国強兵を押し進め、その総決算として、あのいまわしい侵略戦争へと国を挙げて傾斜しつつあった時代に、ひとりの詩人が山野にひっそりとした漂泊の旅を続けていた。
分け入っても分け入っても青い山
大正15年、種田山頭火は九州南部を行乞し、彼の代表作とされるこの句をえた。そしてこのあと、次々と名句が生まれている。山頭火は自然を愛し、山や草花や虫を愛した。なかでも「雑草」が好きだった。
<雑草を活けかえる。いいなあとばかり、見ほれる。今日の雑草は野撫子だった。その花の色のよろしさ、「日本」そのものを見るようだ>
<いつみても、なんぼうみてもあかない雑草、みればみるほどよい雑草、わたしは雑草をうたわずにはいられない>
雑草伸びたままの紅葉となっている 雑草にうづもれてひとつやのひとり 雑草はうつくしい淡雪
山頭火の雑草に寄せる思いは、どこかで雑草のように生き、雑草のように枯れて死にたいという思いと重なっているのだろう。<すべてを自然的に、こだわりなく、すなおに、気取らず、誇張せずに、ありのままに、水の流れるように、やってゆきたい>と、彼は日記に書いている。
<峠を登りきって、少し下ったところで、ふと前を見渡すと、大きな高い山がどっしりと峙えている。祖母岳だ。西日を浴びた姿は何ともいえない崇美だった。私は草にすわってじっと眺めた。ゆっくり一服やった。山を前に悠然として一服、いや一杯やる気持は何ともいえない>(昭和5年9月20日)
<山はいいなあという話しの一つ二つ。三国峠では祖母山をまともに一服やったが、下津留では久住山と差し向かいでお弁当を開いた。とても贅沢なランチだ。例の如く飯ばかりの飯で水を飲んだだけであったが>(昭和5年11月9日)
<朝あけの道は山の青葉のあざやかさだ。昇る日とともに歩いた。いつのまにやら道をまちがえていたが、それがかえってよかった。山また山、青葉に青葉、分け入るという感じだった。蛙声、水声、虫声、鳥声、そして栗の花、萱の花、茨の花、十薬の花、うつぎのの花。しづかな、しめやかな道だった>(昭和8年6月20日)
<人生とは何か、それは持って生まれたものを打ち出すことだと思います。その人のみが持つもの、その人のみが出しうるものを表現することだと信じます。私は私を全的に純真に打ち出し表現する。ここに、ここにのみ、私の生きていく道があります>(昭和9年11月9日、木村緑平への手紙)
野の花や虫や動物達は山々にあって、もって生まれたものを全的に純真に打ち出している。そうやって偽りなく精一杯純真に生きている自然界の生き物の姿に、山頭火は共感を覚え、自分もそのように生きることを望んだのだろう。
折から世界は植民地支配の弱肉強食の時代で、軍部がいばりだし、民衆の心も目先の利益に溺れ、物騒な侵略戦争へと傾いていた。そうした世相に背を向けるようにして、山頭火は自然を友とし、俳句と酒を愛しながら、天真爛漫に生きた。しかし、その人生の旅は、孤独でさびしい道でもあった。
<風もわるくない。もう木枯らしらしい風が吹いている。寝覚めの一人をめぐって、風はどこから来て、どこへ行くのか。さみしいといへば人間そのものがさみしいのだ。さみしがらせようとうたった詩人もあるではないか。私はさみしさがなくなることを求めない。むしろ、さみしいからこそ生きている。生きていられるのである>
私たちは戦後の平和でゆたかな時代に生をうけた。しかし、私たちがそうした恵まれた環境の中で、十分に自分を生かし切っているかどうか。山頭火の俳句に親しむにつれて、私もまた自分の人生をなるべく好きなように、自然に、なだらかに、「雑草」のように生きてみたいと思うようになってきた。
<今日の一句> われもまた 雑草のごとく 草紅葉 裕
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