橋本裕の日記
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2002年10月15日(火) ディベイトと対話(2)

 一昨日に続き、ディベイトと対話についての補足である。このことについて、tenseiさんが掲示板に書き込みをしてくれたので、まず、その文章を引用したい。

 ーーーーーーーーー  tensei さんの書き込み ーーーーーーーーーー

 ディベートについて詳しく書かれたHPにも行ってみましたが、僕が最悪の欠点と思っていることについては答えてありませんでした。それは、意見を聞き合う中で、あの意見が正しい、こちらは間違いだと思っても、立場を変えずに、自分の立場を擁護し主張しなければならない点です。

 これほど議論のあり方についても、思考する精神に対しても、悪影響を与える学習はないのではないかと思っています。こんな能力を必要とするのは、弁護士や検事や、○○党員として議席に座っている人をはじめとするお上に追従する人たちだけだと思うのですが、こんな訓練を小学生からやらせてほしいというのだからイヤになってしまいます。

 調べたり論理を組み立てたりするひとつの方法として役立つ面もある、ということは認めますが、根本的に議論のあり方として間違っている、こんなやり方をしないと思考力は育たないと思う方が間違いです。

 ーーーーーーーーーーー 引用終わり ーーーーーーーーーーーーーー

 tenseiさんが言うように、ディベイトでは、あくまで途中で間違っていたと気付いても、自説を変えることはできない。それどころか、はじめから自説は間違いだと思っていても、それを真実の如く偽装して論戦する。問題はその説がいかに真実らしく相手に印象づけれるかで勝敗を競うゲームである。

 考えてみれば、これは真理に対して無節操で不誠実な詐欺行為である。しかも、こうした嘘八百をもっとも真実らしく論証する訓練が、教育の場に持ち込まれ推奨されている。論理力や弁論力を鍛えるためだというが、詭弁としか言いようのない論理力を身につけても仕方がない。

 そもそもA説とB説が対立していたとき、どちらかが正しく、どちらかが間違いであるという二分法が非論理的である。○か×かということで決着がつくのは、人工的に作られた入試問題くらいでだろう。単純な○×思考を助長し、人間の思考を型にはめるやり方は一種の暴力であり、知性を装っていても、それは知性の否定である。

 必要なのは、論理的に訓練された対話力である。これによってA説とB説はその内容が吟味され、その矛盾点が解決される中で、より総合的なC説の中に止揚される。こうした対話を基本とした弁証法的な発展があって、はじめて私たちはともに相手と手を携えて、より奥深い真理の認識に近づくことができる。そこに対話することの喜びと、ゆたかな果実がある。

<今日の一句> コスモスと 野菊を通り 君に会ふ  裕


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