橋本裕の日記
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2002年10月13日(日) ディベートと対話

 ディベートと対話はよく似ている。しかし、実はその精神において、まったく違うものだ。結論から言えば、私は学校で教えられるべきものは「対話の精神」であって、たんなる弁論述としてのディベートであってはならないと考えている。今日はそのあたりのことを書いてみたい。

 ディベートの場合、ある主張に対して、賛成派と反対派に別れて、論戦を展開する。また、その論戦を観戦する第三者がいて、いずれに分があるかを判定する。これは一種の公開の討論競技会である。そこでの議論は、相手に勝つための議論である。そのために、自分の全知全能を傾けて戦う。一種の知的なゲームであり、頭脳のスポーツだといえるかもしれない。

 これに対して、「対話」は相手に勝つためになされるのではない。その目的と動機は「真理の追究」ということである。見かけはディベートと同じく論戦のように見えて、その精神はまったく違っている。その根底にあるのは、相手を打倒することではなく、相手とともにもう一段と高い境地に進み、ともに真理を共有することである。そこには敵意はなく、ただ友愛と信頼の心がある。

 こうした対話の重要性をプラトンはその著述の中で繰り返し述べている。当時ギリシャでは弁論述が花盛りだったが、それはどちらかと言えば、政敵をうち破るためのディベートに近いものだった。そしてときとして白を黒と言いくるめるために弁論述が使われた。これにたいして、ソクラテスは「真理追究」のための対話術を重視し、それを実践してみせたわけだ。

 とはいえ、対話の精神を教えることはむつかしい。なぜなら人間の心の中にあるのは、多くは他者に勝りたいという敵対心であり、優越を求める対抗意識だからだ。そして日本の教育はこうした競争心をあおり、これを利用することで成り立ってきたからである。

 こうした排他的、競争的な風土の中は、ともに真理を共有することの喜びを実感することはできない。そうした経験が与えられていないのである。しかし学校で学ぶべきことは敵を打倒するためのディベートではなくて、相互理解のためのコミュニケーションである。対話はこの基盤の上に築かれる。

 自己中心主義の壁をうち破ることで、私たちは奴隷の心から解放され、ほんとうの自由な精神を得る。哲学や学問のすばらしいのは、こうした精神的自由に基づく対話によって、「真理をわかちあうことの喜び」に魂を目覚めさせてくれることだろう。

<今日の一句> 月ひとつ 皆で眺めて ありがたき  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

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