橋本裕の日記
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私は教育の目標は、「個人を幸福にすること」だと考え、この日記にもたびたび書いてきた。それではいかにして人間は幸福になることができるのだろう。幸福な人生とは何かそれは教育によっていかにして実現できるか。このことについて、今日はもう少し考察してみよう。
私は人間が幸福に生きるためには「自己中心性からの脱却」、もしくは「自我の社会化」が必要だと思っている。人間はもともと自己中心的である。天動説が地球を宇宙の中心だと考えたように、自分のまわりを世界が回っていると考えている。しかし、こうした自己中心性はやがて破綻する。
私たちは学校で地球が太陽のまわりを回っていて、そして太陽でさえもこの宇宙に存在する無数の星々のごくありふれた一つでしかないことを知らされる。そしてこの果てしない宇宙で、人間はほんとうに粟粒のような微小な存在なのだと思い知らされる。
自分もまた、この地上に何十億と存在する人間の一人であり、社会の中でそのルールに従い、時には他者の前に膝を屈してでも生きていかなければならないことを知る。私たちは親元を離れたとき、学校や社会で自己中心的で幼児的な自我の夢は砕かれ、そのかわりにあまりに冷酷で散文的な現実が与えられる。
そしてこうした認識は、多くの人々を多かれ少なかれ現実主義者にする。ある者は守銭奴もしくは搾取者となって富を求め、あるものは支配欲にかられて権力を求める。また、享楽に走り、歓楽に溺れて、社会逃避の行動に出る者もいるだろう。しかし、そのような生き方が幸福に結びつくわけではなく、たとえそうして人生に成功したように見える人も、心の中に大きな虚無を抱えることになる。
それでは、どのような生き方が、ほんとうの幸福にむすびつくのだろうか。ここで参考にしたいと思うのは、私がこの日記でもたびたび引用したことがあるラッセルの「幸福論」の中の言葉である。
<あなたが自己に没頭することをやめたならば、たちまち、本物の客観的な興味が芽生えてくる、と確信してよい。幸福な人生は、不思議なまでに、よい人生と同じである。
幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人々の興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとる人である>(第17章『幸福な人』)
ラッセルが言うように、幸福になるために私たちは「客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味」を持たなければならない。そのとき私たちは、ほんとうに意味で「自己中心性」を離れることができる。それは自己を他者と眺め、また他者を自己と眺める、公平無私な生き方だと言ってもよい。
もちろん、私たちにそのような聖者のような生き方はむつかしい。しかし、ほんとうの幸福がそのような客観的でかつ主体的な「無私の愛」の中にあるという認識を持つことは必要なのではないか。そして、その気になればそうした体験を、私たちは人生のどこかで、ほんのわずかでも恵まれていることに気付くのではないかと思う。
個人の幸福を実現するには、社会を変えていかなければならない。しかし、社会的条件が満たされても、個人が幸福になるとは限らない。なぜなら幸福とはもっと個人的で内面的なものだからだ。しかしそれは、まったく個人的なものだともいえない。それはつねに、社会的なものであり、他者と自己との関係の中で成就されるものだからだ。
目を社会に開き、人生における活動をより社会的で実践的なものにすることによって、個人の幸福は実現される。なぜなら、そうした活動によって、私たちは「自己が他者であり、他者が自己である」という共生体験を身近に実感するからだ。そして、こうした人生の意義を実感させてくれる「共生体験の実践」こそが、人を幸福な人生へと導く確実な道である。
毎年の自殺者が3万人をこえ、世界でももっとも自殺率が高いという日本社会の殺伐とした現状を見るとき、競争主義の押しつけではなく、むしろ「自由な愛情と広い興味」に根ざした「共生体験の学習」こそ、日本の教育が今一番必要としているものではないかと切に思うのである。
<今日の一句> 妻と吾 娘もすりこ木 栗きんとん 裕
秋の夜長、妻が栗きんとんを作り始めた。それを娘が手伝い、私もすりこぎをもって、ごしごしやった。家族で作った栗きんとんは、ことさらにうまかった。
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