橋本裕の日記
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| 2002年10月01日(火) |
悩める貝殻に宿るもの |
小説家はしばしば負の体験をバネにして文章を書くという。負の体験というのは、貧乏とか病気、失恋、あるいは虐待による性格異常、身体的欠陥、インポテンツ、まあそうしたたぐいのあまりありがたくないことだ。そうした負の体験が大きくて深いほど、人を感動させるいい小説が書けるらしい。
この説に従えば、負の体験を持たない恵まれた人間はたいした小説が書けないということになる。また、負の体験も書いているうちにどんどんすり切れてくる。負の体験を食い尽くしたときが、すなわち作家としての生命が終焉するときということになろうか。
「悩める貝殻にのみ真珠は宿る」というアンドレエフの言葉があるが、これは大方の真実かもしれない。たしかに負の体験を何も持たずに、人を感動させる作品を書き続けたという作家は、世界にあまり例がないのではないだろうか。
そうすると、これから小説を書こうとする人へのアドバイスとして、「小説を書くには、自らの負の体験を見つめること」を言うのもよいかもしれない。どんな順風満帆にみえる人にも、負の体験の一つや二つはある。その鉱脈をさぐりあてることができれば、そこから、何か独自な作品が生まれてくる可能性がある。
もちろん負の体験を持つ人がすべて文学者になるわけではない。ある人は画家になるだろうし、実業家や政治家になる人もいるだろう。学者や独裁者になる場合もあるだろう。つまり、人が何事かをなし、ひとかどの人物になるためには、作家にかぎらず、何らかの負の体験がそこに介在していることが多い。
負の体験は小説家の専売特許ではない。負の体験をバネにして、人は自分の資質に応じた活動をなし、何事かを成し遂げようとする。このことは、人間の活動全般にわたる原則の一つだということができよう。
いずれにせよ人はそうした負の体験をバネにして、活動に邁進する。苦しい鍛錬に耐え、歯を食いしばって精進し、そうした人生の試練を乗り越えようとする。負の体験のもたらすコンプレックスはときとして、大きなエネルギーの供給源になる。
ときとして、悩める貝殻にとんでもない邪悪なものが宿ることもある。それはまた、詐欺や犯罪の火薬庫とならないとも限らない。その意味でも、自己の負の体験の意味を考え、これをはっきり認識しておくことは、よりよき人生を建設していく上で重要なことかもしれない。
<今日の一句> 秋雨に ほどよく濡れて 秋桜 裕
秋桜(あきざくら)はコスモスの和名である。メキシコ原産の一年草で、幕末に日本へ入ったが、広まったのは明治12年(1879)、東京美術学校教師のラグーザが、イタリアから種子を持参して以降だといわれている。「秋桜」という和名が付けられたのは明治時代らしい。
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