橋本裕の日記
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毛沢東について書かれた本はあまたあるが、私が読んで一番面白く、また真実らしく感じたのは、毛沢東の主治医で後にアメリカに亡命した李志綏の書いた「毛沢東の私生活 上下」(文春文庫)である。
文化大革命や江青など四人組の活動、周恩来をはじめ共産党幹部たちのすさまじい権力闘争が生々しく描かれ、そしてなによりも毛沢東その人についての科学者らしい犀利な観察が行き届いている。毛沢東に主治医として22年間仕え、常にその身近にいて彼の言動や性癖を知り、臨終を看取った人の文章だけに迫力がある。
<毛沢東に友がなく、通常の人間的接触から孤絶していたというのは事実である。江青とともにすごす時間はきわめて少なく、子供たちにいたってはほとんど顔をあわせなかった。私にいえるかぎりでは、最初の面談で親しみが忘れがたいにもかかわらず、毛沢東には人間的な感情が欠落しており、したがって愛することも、友情をいだき、思いやりをいだくこともできないのであった。
いちど上海で私は主席のとなりにすわり、雑技を見物していたところ、まだ年端もいかない曲芸師が突然足をすべらせて重症を負った。観衆は息をのんで悲劇に立ちすくみ、子供の母親はいくら慰めてもたりなかった。ところが、毛沢東はまるで何事もなかったかのように気遣いさえ見せずに談笑つづけた。いや、私の知るかぎり、幼い曲芸師の運命について問い合わせることさえしなかった。 私はしまいまで毛沢東の冷血漢ぶりが理解できなかった。多分あまりもの多くの死を見てきたために、人間の苦悩に無感覚になってしまったのではないだろうか。最初の妻・楊開慧は国民党政府に逮捕・銃殺されたが、ふたりの弟・毛沢民、毛沢蕈もそうであった。楊開慧とのあいだにもうけた長男の毛岸英は朝鮮戦争で戦死している。ほかの何人かの子供たちは1934,5年頃の長征中に行方不明になり、ついにその所在は発見されなかった。
しかし、毛が子供たちを失しなったことで情のある言葉を口にしたのを私はいちども耳にしていない。多くの人たちが死んでいったなかを自分だけが生きながらえてきたという事実は、自分だけは間違いなく長生きするという毛の確信をまるで確認したにすぎないかのように思われるほどだ。死者については「革命のために人命は犠牲にされなければならない」ただそう言ってのけるだけだった>
1954年10月、インドのネール首相と会談したとき、毛沢東は「帝国主義者との戦いで勝利をおさめるためならば、原子爆弾で数百万の人民を失ってもかまわない」と述べたという。「1千万か2千万の人間が死んだところで恐れるに足りない」という毛の言葉に、ネールは衝撃を受けたという。
1957年11月、毛沢東が政府代表団を率いて訪ソしたおりにはさらにエスカレートして、「自分は3億の人民を失なうことも辞さない」と演説した。当時中国の人口は6億人だったので、これは国民の半分にあたる。これが単なる政治的プロパガンダでなかったことを、李志綏はやがてつぶさに知ることになる。明日、この続きを書いてみよう。
<今日の一句> 秋桜や 風に揺られて あはれなる 裕
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