橋本裕の日記
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大学生の頃、私は一時日本共産党の党員だったが、組織の指導的立場にいるAさんの家を訪れたとき、彼の書架にマルクス・レーニン全集と並んで山岡荘八の「徳川家康」があったのに驚いた。聞いてみると、それが彼の愛読書だと言うことだった。
私が学生時代に感じたのと同様の違和感を、李志綏もまた毛沢東の愛読書が歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だと知って感じている。驚くべきことに、毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王(ちゅうおう)だったという。
「毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった」(毛沢東の私生活)
毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。
「中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである」
こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、「自分は3億の人民を失うことも辞さない」と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。
「後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである」
「文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである」
このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。
異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。
<今日の一句> 秋なすも 食してみたし 雲流る 裕
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