橋本裕の日記
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2002年09月24日(火) 蟋蟀は十色に鳴く

 22日の夕方、妻を誘って木曽川まで歩いた。十五夜の月を観ようと思ったのだ。あいにく月はみえなかったが、木曽川まで歩く途中に、美しい夕焼け雲を見た。木曽川の対岸の空にも、夕焼けの残照が残っていた。

 名古屋市からこちらに引っ越して来た頃、一家で木曽川まで散歩したものだった。二人の娘も小さかったし、飼い犬のリリオ君も若かった。散歩にみんな喜んでついてきたが、今は妻がお義理でついてくる位である。

 しばらく妻と並んで石段に腰を下ろし、河原の虫の声に耳を傾けた。以前にも書いたことだが、西洋には虫の声を愛でるという風はないようだ。日本人は脳の中で虫の声を「ことば」として聞くが、西洋人は「雑音」としてしか受け取らないらしい。たしかに西洋の小説を読んでいても、虫の声にしみじみ耳を傾ける主人公には滅多におめにかからない。それにくらべると、日本文学は虫の声や風の音に満ちている。

「私は、あの夜、早く休みました。電気を消して寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さなきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思いました」(「きりぎりす」太宰治)

 日本人は虫の声にいろいろな意味を感じ取る。同じ虫の声が、人によっては違った風に聞こえるし、また同じ人でもそのときの状況では違った風に聞こえる。仏教の修行僧が虫の声を聞いて、にわかに悟りを開いたという話も伝わっている。

 私の頭にもふと「蟋蟀は十色に鳴く」という文句が浮かんできた。そして俳句や短歌もこの蟋蟀の声のようにはかないものかも知れないと思った。聞く人の心によって、短歌や俳句も雑音としか聞こえないだろうし、玉のように響くこともあるだろう。そんなあたりまえのことを、大切な人生のヒントとして蟋蟀に教えられたような気がしたのである。

 夕月夜心もしのに白露の
 置くこの庭に蟋蟀鳴くも   (万葉集巻八−1552)
 
 庭草にむら雨降りて蟋蟀の
 鳴く声聞けば秋づきにけり  (万葉集巻八−2160)

 草深み蟋蟀さわに鳴く夜の
 萩見に君はいつか来まさむ (万葉集巻八−2271)

 帰り道、垣根こしに萩の咲いている家があった。夜目にも見事に映ったので、明くる日の午前中に再び妻を誘って、散歩に出た。萩の咲いている家は無住のようで、結構大きな庭が荒れ放題になっていた。満開かと思われた萩もかなり盛りは過ぎていた。垣根越しに庭を覗くと、あかるい秋の日ざしの中で、こおろぎが幽かに鳴いていた。

<今日の一句> あるじなき 宿の垣根に 萩の花  裕


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