橋本裕の日記
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2002年09月18日(水) 学徒勤労動員

1944年(昭和19年)3月、中等学校3年以上の授業を中止し、男女の生徒を軍需工場に動員することが閣議決定された。全国に先駆けて、愛知県では4月の始業式からいっせいに、徹底的に実施された。

 佐藤明夫さんは、自著「戦争動員と抵抗」のなかで、「これは学校教育の否定であり、教師の任務の放棄であったが、もはや疑問を口にすることも許されなかった」と書いている。

 しかし、中には勇気のある教師もいた。たとえば豊橋松操高女の中村要教頭は、中島半田工場へ動員されていた170名の生徒の安否を気遣い、工場側と交渉して、生徒全員を東浦町の工場に配置転換させたという。ついでに宿舎も半田の女子寮から、豊浦の寺院などに分宿させるよう要求した。

「15,6の少女を犠牲にするわけにはいかない。だめならば豊橋に連れて帰る」とまで強硬に主張した結果、工場側もこれを受け入れた。半田製作所と女子寮が米軍に爆撃されたのはその3日後だった。多くの女生徒がこれによって死んだが、移転した松操高女の生徒は全員無事で終戦を迎えたという。

 原爆攻撃をのぞけば、全国最多の学徒の死者を出した愛知であるが、以上のような生徒の生命を守ろうとした教師の異議がなければ、さらに多くの若い生命が奪われたであろう。当時では非国民との非難を覚悟せねばならぬ言動であった。小数ではあっても、記録に残っていない勇気ある教師はまだまだいたと考えられる。・・・なお、生徒と共に空襲で生命を失った引率教員も少なくないが、その実数は未調査である」(「「戦争動員と抵抗」佐藤明夫著、同時代社)

 なお、戦後50数年を経た現在、学徒勤労動員によって生命を奪われた学徒の正確な数はわからないという。1952年の愛知県の調査では866人となっているが、これはかなりずさんな調査で、中村さんが約10年かけて再調査した結果では1020人を数えたという。全国でどのくらいの勤労学徒の命が奪われたか正確な統計はないが、4000名を越えていると考えられる。

<今日の一句> 庭蛙 やおら目を開く 秋の蝶  裕


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