橋本裕の日記
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| 2002年09月05日(木) |
人民の、人民による政治 |
私は首長は公選で選び、議員は抽選で選んではどうかと思っている。これは国政レベルでも、地方レベルでもそうで、国政レベルでいえば、「首相公選、国会議員抽選制」ということになる。
国民のリーダーである首相を国民の直接選挙で選ぶことは賛成できても、議員を抽選で選ぶことにはかなり抵抗を感じるかもしれない。しかし、民意を議会に反映させるにはこれがよい。
これによって、男女の比は等しくなり、あらゆる世代の、あらゆる職業の人が平等に議員として選ばれる。老害や利権とも無縁の政治が実現できる。国民にとって政治がうんと身近なものになるだろう。
議会のもっとも大切な役割は、政府の出してきた予算案をチェックし、その政策の説明や執行状況をチェックすることである。国民からまんべんなく抽選で選ばれた人々が、それぞれの立場から行政府の仕事ぶりを監視し、批判するすることで、偏りのない公明な政治が実現できるだろう。
これまでの日本の議会には党派政治が横行し、そこで行われているのは国民不在の権力闘争でしかなかった。とくに国会議員の多数決によって首相が選ばれるために、この弊害が大きい。議会と行政府が癒着し、チェック機能が働かないばかりか大政翼賛組織にさえなっている。
ときには長野県のように、公選首長と議会が対立することも起こるが、こうしたねじれがおこってくる原因の一つには議会が民意を反映していないことがあげられる。首長の公選制を優先させ、議会の方を抽選制にすれば、このねじれ現象は解消するだろう。
また、議会は立法権をもっている。ところが日本では法律は政府や官僚がつくっている。議員立法がほとんどないのである。これでは三権分立とはいえない。なぜこうしたことになるかといえば、議員に新しい法案を作ろうという欲求も発想もないからである。国会をそれぞれの生活の現場で苦労している庶民の代表にすることで、もっと切実な議論や討論が可能になり、必要な法案の提出も増えるのではないかと思う。
議員立法をむつかしくしているのは、議員に専門知識がないからだともいわれている。抽選制にすればさらに専門知識のない議員がふえるのではないかという危惧が生じるかもしれない。しかし、法律の条文はそれを仕事にしているプロにつくらせればよいのである。そのために国会には法制局がある。「これこれのことを実現したいので、そのために必要な法律案を作成しなさい」という要求を出すことが大切である。
議員立法を一番多く成立させたのは田中角栄だった。彼が「これこれの法案を作りたい」と言うと、官僚はたいてい既存の枠の中でしか考えずに、「それはむつかしいです。これまでの法律と矛盾しますから」と答えたらしい。それに対する田中氏の答えは「それなら、いまの法律を変えればいいじゃないか。現行法を改廃して、新しい法律を作ろう」だったという。
「田中が現在までに提出して成立させた議員立法の数は33件だが、この3年間に21件と集中している。その内容は住宅、道路、国土開発などの国民生活の整備や、社会的な弱者に対する救済立法であった。昭和20年代の田中は議員立法に政治生命をかけたのである」(「政治家田中角栄」早坂茂三著、集英社文庫)
アメリカの場合、提出された法案がさまざまな不首尾をもっていても、それはあまり問題にされないという。なぜなら新しい法案に優先権があるからである。古い法案と矛盾するなら、以前のものをかえればよいという、ごくあたりまえのことが、慣例を重んじ既得権益を重んじる日本の官僚や法律家には、なかなか理解できないらしい。
私は議員抽選制によって、民意を直接議会に反映させることが必要だと考えているが、これに反対する人もいるだろう。民意がかならずしも最良のものとは限らない。たしかに「人民の、人民による」政治が、「人民のためになる」とは限らない。しかし、このリスクを負うことによってしか、民主主義は実現できないのである。このリスクを負おうとしないあいだ、日本は永久に民主国家となることはできない。
首長は議会をバックにして、その多数派工作に依存して政治を行うのではなく、国民の代表である議会を尊重しながら、ときにはこれに対決する見識を示して、緊張感のある施策を打ち出していく必要がある。知事に再選された田中康夫氏が、来年度に実施される長野県議会選挙について、「私は議会に自分の与党を持とうとは考えていません」と述べていた。こうした新しい感覚をもつ首長がふえていけば、日本の政治は確実にかわっていくに違いない。
<今日の一句> 日焼肌 少女笑へば 歯は白し 裕
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