橋本裕の日記
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2002年09月06日(金) 市民社会と民主主義

 民主主義の歴史は、古代ギリシャから始まる。王制、貴族制、潜主政治などをへて、紀元前5世紀ごろ、ギリシャの都市国家で成立した。その代表はアテネである。

 古代ギリシャにおける最も偉大な人物の一人に、政治家ペリクレス(BC495〜BC429)をあげることができるだろう。なぜならアテネの民主主義を完成させたのが彼だからである。彼は国政の最高意志決定機関として「民会」を位置づけ、すべての市民に民会に出席して意志表示できる権利を与えた。

 さらに、すべての政府の役職を市民の抽選で決めることにした。そしてこれまで無償だった役職者に手当を支払う制度をもうけた。これは貧しい市民が生活の維持のために役職を辞退しないですむための配慮である。

 抽選で決められる役職の中には、最高位の「執政官」も含まれる。いわば首相や知事をくじ引きで決めようというわけだから、アテネの民主主義がどれほど徹底していたかわかるだろう。首相公選制さえ実現していない日本は、古代アテネの足下にも及ばない。

 こうしたペリクレスが主導した民主政治は、アテネに成熟した「市民社会」をもたらし、未曾有の文化的・政治的繁栄をもたらした。今日私たちがギリシャの栄光としてたたえるもの、例えばパルテノン神殿やギリシャを代表する数々の芸術品、ソクラテス、プラトンの哲学など、ほとんどすべてのものがこの黄金時代の産物である。言論、政治、経済活動の自由のもと、アテネには周囲の国々から有能な人々と富が集まってきた。

 ところでペリクレスはどうしてこれだけの改革が断行できたのだろう。彼自身は一度も「執政官」になったことはなかった。ただ一介の市民でしかなかった彼がまるで独裁者のようにアテネの政治を自由に動かすことができたのは、なによりも彼の言論の力がすぐれていたからである。

 民会で彼が立ち上がり、意見を述べ始めると、政敵でさえ彼の意見を無視することができなかった。なぜなら、そこに道理がとおっていたからである。ペリクレスの演説がどのようなものであったか、「私の好きな言葉」に収めてあるので、ごらんいただきたい。

 こうしたアテネの民主主義は、ペリクレスが死んで、アテネがスパルタの軍事力に蹂躙されてもまだ、その遺産として存続した。しかし、さすがにこれを手放して賛美することはなくなった。その代表はプラトンだろう。彼は民主主義はやがて衆愚政治に堕落し、そのはてには独裁政治が起こってくると予言している。そしてこれはその後の人類の歴史のなかで何度も実証された。

 アテネ民主政治に対する、もっとも有力な反論はたとえばアウグスティヌスの「神の国」の中に見出されるという。

「アウグスティヌスによれば、人間は独力で道徳的価値を生み出すにはあまりに堕落しており、真・善・美・意味といった恒久的尺度はどれも、聖霊の神秘的なはたらきに由来する。歴史は人間事象に神が現前したことの記録であり、その意味は人間精神の所産ではなく全キリストの啓示に見出されるものなのである」(「市民社会論〜歴史的・批判的考察」)ジョン・エーレンベルク著 青木書店)

「ギリシャ人やローマ人たちは、政治的に組織された市民社会の中での言説・討議・活動が人間的幸福の基礎を気付くと考えたが、いままさにアウグスティヌスは、信仰・聖書・教会をとりあげ、キリスト教原理だけが政治的活動や市民社会編成のための基礎を築くことができるとした」(同上) 

 アウグスティヌスは宗教的見地から民主主義を批判した。このほかに、ホッブスのような政治主義からの批判がある。こうした批判は現代でもそのまま衣装を変えて存在している。これにたいして民主主義の側から民主主義擁護論の代表はジョン・ロック(1632〜1704)の「市民政府論」だろう。民主主義と近代市民社会論の原典ともいうべきこの書については、いずれじっくり書いてみたいと思っている。

 なお、民主主義と言えば選挙制度を上げる人がいるが、これは間違いである。直接民主主義のギリシャには選挙はなかった。民会の構成員を選挙で選んだのはローマである。候補者をキャンディデイトというのはラテン語で「白い布をかぶった人」という意味らしい。ローマの候補者は目印に白い服をきたのだろう。日本でも選挙の時白いたすきをかけていたが、これはこの名残だったのかもしれない。

<今日の一句> いつまでも 暑さ続きぬ 玉の汗  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

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