橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
| 2002年09月03日(火) |
社会性を破壊する教育 |
古代ギリシャの初等教育は体操と音楽が中心だった。ここで音楽というのは言語(会話術)やホメロスの詩の暗唱が中心である。市民として必要な健康な肉体と共同体精神を養うことが目的とされた。このあと、本格的に三学(哲学、修辞、論理)と四科(数論、幾何、音楽、天文)を習うことになる。
欧米の教育にはこの伝統が生きている。たとえばアメリカの初等教育で重視されるのは何よりも相互理解のためのコミニュケーションの能力である。これによってまず社会性をやしない、社会の一員としての連帯感を養う。
アメリカ人としての誇りを持たせ、国への忠誠心や、よき市民として自立心、個人としての独立心を持たせること、これが初等教育の中心的課題だという。そのためには自分と違った意見を持つ人間を理解し、自分の意見を伝えること、会話や討論ができることが重要になる。
この教育のために、ほとんどの時間が費やされるために、具体的な教科の学習はあまりすすまない。たとえば、分数のかけ算や割り算のできない子供が大勢いる。だから、アメリカの大学には英語と数学の初等コースが用意されていたりする。
アメリカ人が高校までの教育に期待するのはまともな市民(アメリカ人)になることであって、必ずしも数学や理科の勉強ができることではない。それでは勉強はいつ、どこでするのか。それは大学に入ってから、研究をするのは大学院にはいってからすればよいと考えられている。
こうした社会性重視の教育観は、日本とまるで違っている。日本では小学校から教科の勉強が中心である。そしてテスト勉強や受験競争に精励して、これの勝者になることが社会へのパスポートだと教えられる。こうした競争中心の教育制度が何をもたらすか、だれの目にもあきらかだろう。
一言で言えば、社会人としての連帯感の喪失である。利己主義と虚無主義をはびこらせ、モラルを喪失させる。日本でおこなわれている教育はあきらかに、人間性破壊以外の何者でもない。今日本に充満しているのはそうして心のよりどころをうしなった、自分と身内のことにしか関心のない反社会的人間である。
日本の学校教育がそうした人間を大量生産している。そしてその反動として、古くさい道徳や奉仕精神の高圧的強制が、教育正常化の美名のもとに行われようとしている。この愚かしさに一刻も早く気付いて欲しい。
<今日の一句> 廃業の 工場敷地に 虫がなく 裕
|