橋本裕の日記
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2002年08月20日(火) 人生芝居

 あれはいつの頃だったろうか。たぶん、中学生の頃ではなかったかと思う。学校の帰り道、とつぜん、閃いたのだ。それこそ天啓のように、「人間はみんなお芝居をしている」という観念が。そして、その瞬間、いろいろな人生の謎が一気に解けたように思った。

 父も母も友人も、そして私自身も、みんなお芝居をしている。人が死ねば、悲しくなくても悲しいふりをするし、反対に人の成功を見れば、嬉しくもないのに嬉しい顔を装い、祝福の言葉を口にする。教師は教師の仮面をかぶり、父や母も親としての仮面をかぶってそれそれの役をそれなりに演じている。

 とくにこのお芝居がうまいのは少女達である。彼女たちは口する言葉と心の中がまるで違っていても平気である。私の前で口をあけてあくびをし、横柄でぶっきらぼうな物言いをする少女が、別の人も前ではそれこそ天使のような声音を使い、それこそほれぼれするような優美な笑い方をする。なんとみんなお芝居がうまいのだろう。

 これは私にとっては驚くべき発見だったが、ほとんどの人が成長の過程で、こうした人生の真実に目覚めるのではないだろうか。また、自分で考えなくても、こうした思想は昔から文学作品の中でくりかえし語られてきた。私自身、そうしたことが書かれた文章を読んでいて、それを思い出しただけだったのかもしれない。シェークスピアの作品から有名なセリフを引用しよう。

「世界は劇場、女も男もみんな役者。登場しては退場し、一生、さまざまな役で七幕を演じきる」 (お気に召すまま)

「人生はうつろう影絵芝居。あわれな役者風情がふんぞり返り、歯噛みする。ほんのいっとき舞台をつとめ、ばたっと音沙汰がなくなる。どんちやん騒ぎの、うつけのしやベるおとぎ話だ。意味などありはしない」 (マクベス)

 ところで、「人生は舞台だ」という考えをはっきり思想として持っていたのはギリシャ人である。古代ギリシャでは、ポリスの公の行事として演劇が行われていた。さらに演劇鑑賞は彼等にとって生活の一部であり、生活そのものだった。こうした中で、「人生そのものが劇場だ」という人生観がひろがっていた。プラトンの有名な文章を証言として引いておこう。

「真の詩人は悲劇的であると同時に喜劇的でなければならない。人間生活のすべては同時に悲劇として、また喜劇として演じられ、感じられるのでなければならない」 (饗宴)

 さすが哲学者だけあって、内容が高尚である。古代ギリシャ人の考えた人生観は、私が中学生の時目覚めた人生理論と似ているようで、実は本質的に違っている。プラトンは「人の一生は人生という舞台でのお芝居だ」というが、その観客は「神」だと言っているからだ。

 それは人に見せるための芝居ではなく、神々を喜ばせるために、神々に捧げられた神聖な芝居である。だから、「神々の照覧あれ」という箴言のあるところ、人々の演じる人生劇はいやがうえにも、勇気と尊厳に満ちた高尚なものにならざるをえない。

 こうした人生観を持っている人たちの人生は、現代人の偽りに満ちた人生芝居とまるで次元が違っていて当然かもしれない。しかし、その偽りと嘘に満ちた喜劇芝居こそが、真実人間らしい、哀切なドラマであることに違いはない。それは神々の賞賛を得るにはいたらないだろうが、ときとして人々の心を動かして、賞賛と同情と身も世もないほどの涙をさそう。

 とはいえプラトンのような高尚な人生観に触れることは、それなりの意味がある。芭蕉は「高くさとりて、俗にかえるべし」と言っているが、人生は所詮お芝居だと考えながら、これをたのしむゆとりと風格が生まれるからだ。高くさとった人の人生芝居は、人の心をなごませて、見ていて愉快である。

<今日の一句> 髪をすく 女の顔の かなしくて  裕 


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