橋本裕の日記
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2002年08月17日(土) 点と線の不思議

 ギリシャ人は一風変わったことを考えることが好きだった。たとえば、物質をどこまでもこまかく分けていくとどうなるのか、などということを考えた。デモクリトスという人は、こうして「アトム」という観念にたどりついた。物質はすべてアトムから成り立っているというのである。しかし、だれもアトムを見た人はなかった。

 どうように、「線分は点が集まって出来ている」という。私たちは学校でそう習い、これを当然の認識として受け入れているが、よく考えてみると、これもなかなかに謎をふくんだ文章だということがわかる。

 たとえば「点」とはなんだろう。ユークリッドによれば、それは位置のみを持ち、面積をもたない図形だそうだ。もちろんそんなものがこの世の中にあるわけがない。たしかにそれらしいものを私たちは紙の上に書くことはできるが、それでも面積を0にはできない。

 そもそももし面積が0であれば、私たちはそれを見ることが出来ず、目に見えないもの位置をどうやって調べるのかという疑問がわいてくる。また、面積ゼロの点をいくら集めても面積は0のままだから、直線も面積を持たないわけだが、面積をもたない直線も私たちには見ることが出来ないのではないのか。こうした疑問が次々とわいてくる。

 「線分は点のあつまりだ」という古代ギリシャ人の命題を認めたとして、それではその線分に含まれている点はどのくらいあるかといえば、彼等はそれは「無限個」あると答える。そうすると、ここに新たな疑問が湧いてくる。いま鉛筆で1センチメートルの線分を書く場合を考えよう。当然彼の鉛筆は、無限個の点をそこに並べなければならない。無限個の点を書くのに必要な時間がどうして有限で足りるのだろうか。

 こうした疑問はギリシャ人も感じていたようで、ゼノンやパルメニデスは「飛ぶ矢は止まっている」だとか、「アキレスは決して亀に追いつけない」といった逆説でこうした矛盾をたくみに表現している。実のところ、ギリシャ人はこうした矛盾をどう解決したらよいのか分からなかった。

 なぜならこの矛盾の本質を明らかにするためには、「無限小」「無限大」「連続」といったものの正体を突き止める必要があったからだ。数学者がこれに成功したのはようやく19世紀に入ってからである。ワイヤシュトラウスやデデキント、そして最終的にはカントールという天才的な数学者の出現がなければならなかった。

 もっともカントールにとってもこの仕事は大変な難事業だった。多くの数学者は彼の仕事の本質を理解することが出来ず、数学界では彼は異端者だと見なされた。彼はそうしたなかで自分の仕事をやりとげたわけだが、その過程で精神を病み、最後は自殺している。

 さて、カントールが明らかにした真理をいくつか紹介しよう。
「無限の長さをもつ直線と1センチメートの有限な線分の上にある点の総数はちょうど等しい」
「直線上にある点の総数は、平面上にある点の総数に等しい」
「自然数の総数は正の偶数の総数に等しく、また正の奇数の総数に等しい。またそれらの総数に正確に一致している」

 これらの命題は私たちの常識を越えている。しかし、カントールはこれがまったく論理的に正しいことを証明してしまった。彼は「無限とは部分が全体に等しいことだ」と述べている。彼はギリシャ人が提起した問題の謎を完全に解くことができたが、その結果明らかになった「無限」という怪物の正体は、実に驚くべきものだった。

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(付録) 「自然数の総数は正の偶数の総数に等しい」ことの証明

一般に二つの集合AとBがあり、それぞれの要素どうしに「1体1の対応」がつくとき、これら二つの集合の要素の総数は等しい。ところで、

 自然数は     1,2,3,4, 5,6, ・・・・・・   (A)
 正の偶数は    2,4,6,8,10,12,・・・・・・  (B)

これらの間には、1と2,2と4,3と6,...というように「1体1の対応」をつけることが可能である。よって、これら二つの集合の要素の総数は等しい。
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<今日の一句> にわか雨 白き下着が 濡れてをり  裕


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