橋本裕の日記
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2002年07月29日(月) 結婚まで

10.友人たち

 市ノ瀬さんと話をしている間にも、二、三人の出入りがあった。いずれも私がこの3月まで籍を置いていた研究室の院生やオーバードクターだった。顔見知りの彼等は、「やあ、元気そうだね」などと声を掛けてくる。「まあ、ぼちぼちやっているよ」と私も相づちを打っておいた。

 私は就職してから、時間に追われるような忙しい生活をしていた。下宿先で本を読んだり音楽を聴いて寝ころんでいた院生のころと比べると、随分活動的な生活だった。おかげで体形や表情が引き締まった。元気そうに見えるのは、日に焼けたせいもある。

 色白の市ノ瀬さんは相変わらず静かで、ゆったりしていた。私の血色のよくなった顔を見て、
「外で運動でもしているの」 
「テニス部の顧問になってね、放課後はたいていテニスコートにいるからね」
「部員は何人くらいいるの?」
「女子は20人くらいかな。けっこう可愛い子がそろっているよ」
「それは、また、結構なことだね」

 市ノ瀬さんの話によると、やはり友人の一人が現在愛知県で高校の先生をしていて、彼は女子の体操部の顧問だという。
「稲山君の話だと、つい、指導に熱がはいるそうだね。授業よりも放課後の部活の方が楽しみだそうだよ。今度、橋本君に紹介するよ。それとも、もう面識があったかしら」
「この部屋で会ったことがあるような気がするな。たしか、市ノ瀬さんを訪ねてきたとき、一緒に夕食を誘われたようような・・・・・」

 もう、三年ほど前の話だった。まだ修士課程に身を置いていて、市ノ瀬さんともそれほど親しくなかったころだが、友人だと言って中肉中背の色の浅黒い青年を紹介された記憶があった。たしか農林高校で物理を教えているということだった。名前も稲山だったような気がした。あいにく家庭教師のアルバイトがあったので、一緒に食事はしなかった。

「君がいなくなってさびしいよ。渋谷君やM君とはいつも一緒に食事に行くんだけどね、やはり、君とはいろんな会話ができたからね。あちこち、ずいぶん旅行にも行ったし、たのしかったね」
「それは僕も同じですよ。市ノ瀬さんのおかげで、ずいぶん世間が広がった。友人に恵まれました」
「あとは肝心の人を見つけないとね・・・・」
「それは市ノ瀬さんの方こそ・・・」

 こうして市ノ瀬さんとよもやま話をしていると、きりがないようだった。博士号を持っている市ノ瀬さんは物理学では大先輩だったが、二人の間に物理や数学の話はほとんどなかった。むしろ文学や音楽、芝居などの趣味の話が中心だった。ときには哲学や人生の話を、しみじみとすることもあった。

 二人とも独身で、境遇も似ており、学問や文学が好きだという趣味や考え方も近かったので、おたがいにくつろいだ気分で、落ち着いて話をすることが出来た。市ノ瀬さんは二つ、三つ年下の私を対等に扱ってくれた。そんなところも、私は大いに気に入っていた。

 昼近くになって、渋谷さんが顔を出した。彼とも1カ月ぶりである。
「引っ越しの手伝い、どうもありがとう」
「いや、たいした荷物もなかったからね。それよりか、料理屋でうまいものを食べさせて貰ってありがたかったよ。それで、今日は我々貧乏人に何をおごってくれるんだね。給料たくさんもらったんだろう」
「しかたがないな、ビールを一本おごるよ」

 私たちは部屋を出ると、4階のMさんの部屋を覗いた。Mさんは博士論文を書いている最中で、少し寝不足の疲れた顔をしていた。それでも久しぶりに4人で、外で昼食を食べることになって、うれしそうだった。

<今日の一句> 蚊に食われ 犬になめられ 昼寝かな  裕


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