橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2002年07月28日(日) 現代日本語の誕生

 私たちが使っている現代文は「言文一致体」と言って、おおよそ明治時代に作られた。この言文一致体が作られるまで、日本語は「話し言葉」と「書き言葉」はまったく別の言語と言っていいほど違っていた。日本に来た宣教師で日本語にも堪能だった宣教師がこんなことを書いている。

「日本人は話すときの通俗な文体を用いて物を書くことは決してしない。話し言葉や日常の会話における文体と文書や書物や書状の文体とはまったく別であって、言い回しなり、動詞の語尾なり、その中に用いられる語群なりがたがいに甚だしく相違している」(ジョアン・ロドリゲス 1604年)

 杉田玄白、前野良沢ら開拓者のあとを受けて、蘭学研究のパイオニアだった大槻玄沢はオランダ語が言文一致であることの利点を次のように書いている。

「常話モ書籍ニ著スコトモ同様ニテ別ニ文章ノ辞と云フモノナシ。此如クナルモノ故ニ至リテ入リ易ク学ヒ易キ風ナリ」(蘭学階梯 1783年)

 文章は「和漢混淆体」で書かれることが多かった。しかし、武士から農民に至るまでそんな堅苦しい文体を使って会話していたわけではない。とうぜんそこに懸隔が生じてくる。文章はますます日常をはなれて格式張り、会話体はますます通俗で思想や論理から遠ざかる。

 明治時代になって、西洋から多くの物を学ぼうとしたとき、当時の漢語を主体とした文章体は窮地に陥った。文体が格式張っているうえに、英語を日本語に移そうにも、日本語にその対応物がみあたらないので、どうにもならないことが多かった。たとえば夏目漱石の覚え書きはこんな風に書かれている。

「俗人ハcausalityハindependentニexistシテ居ルト思フ。
「他ノismヲ排スルハlifeヲunifyセントスル知識欲ガblindナルpassionニモトヅク」
「彼等一派ノpsychologistノ云フ如クfeelingハconservativeデintellectガprogressiveノcaseノミナラズ」
「lowハnatureノworldニ於ル如クhuman workdヲgoyernシテ居ル」

 なぜ、このような珍妙な文体になったのか。その理由は「法」「自然」「世界」「人間」「支配」といった私たちが現在何不自由なく使っている日本語がまだ市民権を確立していなかったからだ。実際、この覚え書きを書いていた頃、漱石はこんなことを書いている。

「近頃の文章では未だ充分に思想があらわされぬやうだ。将来はもっとよくもっと容易く現はす事が出来るやうにならなくてはいかぬ。私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考えた事がどうしても充分の日本語では書き現されない」(将来の文章 1907)

 もう一つ、当代一流の哲学者で、私の憧れの人でもあった西田幾多郎の文章をおめにかけよう。その難解さを味わってもらいたい。
「時と空間との矛盾的自己同一的に自己自身を形成する世界の時間的自己限定として空間否定的に、判断作用的に云へば、主語と述語との矛盾的自己同一的に自己自身を表現する世界の主語的方向否定的に、述語面的自己限定として、我々の自己とい云ふものが成立するのである」(場所的論理と宗教的世界観)
 
 日本語では西洋の思想も科学も文学も翻訳できそうにないと考えて、英語を公用語にしたらどうか考える知識人もいた。その代表が当時の文部大臣の森有礼だった。これを「書生の考えることだ」と言って、反対したのが福沢諭吉だった。

「或は書生が日本の言語は不便にして文章も演説も出来ぬゆへ、英語を使ひ英文を用るなぞと、取るにも足らぬ馬鹿を云ふ者あり。按ずるに此書生は日本に生まれて未だ充分に日本語を用ひたることなき男ならん。国の言葉は其国に事物の繁多なる割合に従て次第に増加し、豪も不自由なき筈のものなり」(学問のすすめ)

 福沢諭吉の考えは、語彙が足らなければ作ればよい、文体が不自由なら改造すればよいという楽観主義の立場だった。実際彼のこうした考えにそって、明治時代には約1万語もの造語が日本語に付け加えられた。私たちが現在日本語として日常的に使っている単語はほとんどこのたぐいである。最後にそのほんの一例をあげておこう。

 人間、自然、世界、社会、国家、国民、政府、議会、選挙、法律、権力、自由、平等、権利、義務、哲学、科学、会社、社交、道徳、交際、仲間、組、演説、論理、言語、真理、真実、愛、善、主義、、原因、結果、存在、自己、時間、空間、生物、物体、物質、進化、精神、理性、感情、判断、記憶、生活・・・・・・

(参考文献) 「日本語は進化する」 加賀野井秀一 NHKブックス

<今日の一句> 遠花火 暑さ忘れて 夢のなか  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

My追加