橋本裕の日記
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| 2002年07月14日(日) |
一兵われの死なざりし |
私が好きな俳人の一人に、安住敦(あずみあつし1907−1988)がいる。昭和20年8月15日終戦の日に詠まれた俳句の中で、印象に残る一句を上げるとすれば彼の句だろう。
てんとむし一兵われの死なざりし
彼は逓信省に十数年勤めたあと、そこをやめてから軍隊に召集され、終戦を迎える。彼の「随筆歳時記」には、句ができたときのことが次のように書かれている。
「所詮、助からないと思っていた命が、これで助かったと思ったとたん涙がふり落ちた。一ぴきの天道虫がとんできて、私のかかえ持った銃の銃身にとまった」
さらに彼が自ら主宰していた「春燈」に掲載された「二等兵の手帖」という随筆があるので、一部引用しておこう。
「わたくしたちは幸い外地に派遣されることなく、千葉県上総湊の仮兵舎に配属された。一応内地勤務というわけだが、そこの部隊の任務は米軍の上陸に備えての沿岸防備で、名称も対戦車特別攻撃隊、敵が上陸したら兵たちは一人々々十キロの爆弾を(我々は中国では破甲爆雷と呼んでいたが、現物は見た事はない)背負って敵戦車の下に飛込むのだ。兵たちは明けても暮れても、汗みどろ泥塗れになってその訓練をやらされていた。
兵隊に自由時間はないが、訓練学校兵舎に戻るとわたくしは、ポケットから手帖を取出し簡単な日記をつけた。それも軍の批判や厭戦的なことは書けず、 例えば「午後匍匐前進訓練、膝小僧血を噴く。あと軍歌演習」といった程度で、余白に俳句一、二句。それだけのものである。それだけのものだが、それはわたくしにとってその日々を一兵として生きた証拠だった。
虫ケラのような儚い命だが、少なくともそれを記す瞬間わたくしは確かに生きていた。やがて、怖るべき敵前上陸もなく敗戦となり、兵たちは敵戦車の下に飛込むこともなく、唯一つの武器九九式小銃を現地に放棄して召集解除となった」
安住敦には数々のすぐれた句がある。そのなかから私が好きな句をいくつか紹介しよう。いずれも、妻子を抱え、職を転々としながら、戦中戦後の貧乏暮らしの中でしみじみと歌われた句である。
よこがほがさびしく足袋をはいてゐる
ゆふぐれは一ぴきの魚買ってくる
妻がゐて子がゐて孤独いわし雲
兄いもとひとつの凧をあげにけり
銀杏ちる兄が駈ければ妹も
春惜しむ食卓をもて机とし
雁啼くやひとつ机に兄いもと
世にも暑にも寡黙をもって抗しけり
こでまりの愁ふる雨となりにけり
しぐるるや駅に西口東口
鑑賞するのに特別の知識や説明は必要なかろう。平明で淡々とした味わいのある句ばかりである。実際、安住自身自らの作句態度について、次のように書いている。
「私の人生において、いかに己が感傷を大切に生きたかが私にとっては問題である。私はつねに市井の一隅で、しずかに、思い耐え、しみじみと、おのが人生の哀歓を詠っていればいい」(現代俳句全集)
(参考文献) 「日本の詩歌 30 俳句集」 中公文庫
<今日の一句> にわか雨 こでまり濡れる よふけかな 裕
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