橋本裕の日記
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2002年07月15日(月) 結婚まで

8.電車の女
 7時過ぎに、私はアパートを出た。S子は体調がすぐれないというので、合い鍵を渡してアパートに残した。
「帰りは遅くなるので、待っていないで、早く帰るのだよ」
 私は玄関口でS子に声を掛けたが、このままS子が居座るのではないかという不安が残った。

 それでも朝日を浴びながら、駅の方に歩いていると、自由な風にふかれて野を行くような快活な気持ちが戻ってきた。せっかくの休日である。S子のことは忘れて、この日を楽しみたいと思った。

 電車がいつもより空いていた。私は座席に腰を下ろし、周囲を観察した。行楽に出かけるらしい家族連れが向かいの座席を占領していた。幼い男の子が少し年長の女の子二人に挟まれて、何かのコマーシャルソングを歌っていた。父親と母親はリュックを膝に置いて、ときどき子供たちに声を掛けていた。

 10年後、私もこんな風に家族をもつのだろうか。いや、そんなことはないだろう。S子に言ったように、私はたぶん最後はだれにも看取られことなくモンゴルの草原で死んでいく。自分がこの世に存在した痕跡など、一切残さずにこの世界とおさらばしたい。

 こんなことを考えているうちに、電車は途中から満席になり、私の前に若い女が立った。その女性からかすかに香水が匂ってきた。年の頃二十三、四で、ほっそりした腰をしていたが、胸の膨らみがほどよく目立っている。これからデートかもしれない。涼しげな目をした美人だ。私は何となし、昨夜K子から貰った百合の花を思い出した。

 目の前の女性は、年頃はK子とおなじくらいだろうが、保母をしているK子より都会的な印象で、あか抜けていた。満員電車の中で、こんな魅力的な女と体が触れ合ったりしたら、妙な気がするだろう。こうした女性の手を握り、キスをしたり、体の関係を結べば、夢中になれるかもしれない。

 S子にとって、私がそのような男なのだろう。私は修士号を持っていて、文学や哲学にも強く、教員という社会的に信用のある職業についている。一見して人柄も穏和で真面目だ。29歳のS子にとって、私は結婚相手としては、かなり条件のよい男に違いない。K子やその親たちが私との結婚に乗り気なのも、私にそれだけの価値を認めたからだろう。

 しかし、私は一人の女性だけではなく、たくさん女性を知りたいと思っている。哲学や文学に楽しみを見出したように、異性との心のこもった交際から、なにがしかの人生の喜びが得られれれば、それでよい。結婚して束縛されたくはないが、自分の人生を華やかに明るくするために女性との交渉は持ちたいという、かなり勝手な男なのだ。

 私は目の前の女をもう一度見た。彼女をS子やK子と比較して、理想化していたような気がしたからだ。よく眺めてみると、目の下に小さな黒子がある。いわゆる泣きぼくろというやつだ。顔の表情も、左右で少し均衡が破れている。高嶺の花というほどの眩しい存在ではなさそうだ。たしかにおしとやかに澄ましているが、私のアパートの女子大生達とそれほど違いはなさそうだ。

 ふと、私の心の中に、目の前の女性を誘惑したい気持が動いた。私はもはや貧乏な大学院の学生ではない。身につけているものも、そう安物ではなかった。私はもうすこし自分に自信を持ってもいいのではないか。

 私は彼女のスカートの下のふとももや、その奥に隠された女の徴、そして清々しく息づいているゆたかな胸とそのつぼみを想像した。
(自分がなくなりそうよ。あなた、それでいいの)
(すっかり、自分でなくなってごらんよ)
 彼女は私の胸の中で髪を乱し、なまめいた媚態を見せながら、やがてすっかり正気をうしなっていく……。

 こんな妄想に耽っているうちに、電車は名古屋駅に着いた。プラットホームに降りて、私はしばらく女性の後を歩いた。しかし私の歩みは次第に遅くなり、やがて群衆の中に彼女の姿が消えた。それを見届けるようにして、私はおもむろに改札口を出て、地下鉄乗り場の方へ歩いた。

<今日の一句> 夜が更けて デネブアルタイ なつかしき  裕


橋本裕 |MAILHomePage

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