橋本裕の日記
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二十数年前に、小説を書き始めた頃、その道の先輩から、「できた文章を口の出して読むといいよ。聞いてわからない文章は悪文だからね」とアドバイスされた。それから、私は自分の書いた小説をテープに吹き込んで、繰り返し聞いて、文章を練り直した。これを10年間ほど続けて、ようやくまがりなりに小説の文章らしいものが書けるようになった。
その後、文章を朗読してテープに吹き込んだり、実際に声に出して読んだりすることはなくなった。そのかわり、心の中で登場人物の声を聞きながら読んでいる。この日記の文章も、心の中で何度も声に出して読んで、書き直しをしながら書いている。
思うに、言葉というのは本来「口で語り、耳で聞く」ことが基本である。しかし、現代の日本語はこの原則からかなり逸脱してしまった。それは漢字尊重、文字尊重の歴史がしからしめたものだと思う。同音異義語の氾濫する現代文はますます「耳で聞いて分かる言葉」という理想から離れつつある。
これに対して、やまとことばが主体の古文は耳で聞いてわかりやすい。ただわかりやすいだけではなく、いかにも響きがよい。とくに短歌や俳句を読んでいると、古文の美しさを実感する。口語体の短歌や俳句もあるが、やはり文語体は引き締まっていてうつくしい。私が俳句や短歌が好きな理由の一つに、この文語体の美しさが味わえるということがある。俳句や短歌の中では、今も文語体が現役で生きて働いているからだ。
たとえば聖書の翻訳も、私は現代語訳と文語訳の二種類を持っているが、「文語訳」のほうに惹かれる。
「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめたときのソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ伝6−28)
「野の百合はいかにして育つかを思へ。労ぜず、紡がざるなり。されど我なんじらに告ぐ。栄華をきわめたるソロモンだに、そのよそほひこの花の一つにもしかざりき」
文語体はなぜこのように簡潔で美しいのだろうか。その理由は、古文が基本的に口承によって鍛えられた、長い歴史の中で洗練された伝統のある言葉だということだ。またこの言葉によって、私たちの感受性が養われ、思想や感情が形作られてきた。古文の美しさに出会うことで、私たちは日本の伝統の美しさを実感することができる。
私の場合、古典との本当の出会いは「万葉集」だったような気がする。大学時代にNHKラジオで犬養孝さんが「万葉集」のうたを朗読するのを聞いて万葉集の熱烈なファンになった。それからしばらくしたころ、やはり同じNHKの番組で女性アナウンサーの朗読で井原西鶴の「日本永代蔵」を聞き、古文の美しさに改めて感激したのを覚えている。
古文は朗読で聞くのがいい。それはもともと古文が発声を想定して書かれたものだからだ。だから古文は声に出して読んでみると、いっそう美しさが引き立つ。俳句や短歌など、実際に声を出さないでも、心の中で静かに味わいながら読み返してみるとよい。その響きの良さが実感されるに違いない。
錯雑した現代文明の担い手として、実用上の重圧にあえいでいる現代文に、このような美しさを要求するのは少し酷かも知れない。まずは聞いて分かる文章が書けるように心がけるべきだろう。そのうえで、いくらかゆとりがあれば、すぐれた古典の文章に学んで、文章を美的に洗練させることがあってもよい。しかし、このことは何も文章を美しく飾り立てることではない。
文章の基本はあくまで意味が通じることである。文章はなるべく透明で、静かに澄んでいるのがよい。そのほうが物の本質がよく見えるからだ。読む人を陶酔させるような語り口のよい文章は、その時は面白く聞こえても、後に何も残らず、ときとして悪酔を覚えたりする。こうした文章は、美的に洗練とされた文章とは言いがたい。
<今日の一句> ひまわりが 少しうつむき 子らを見る 裕
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