橋本裕の日記
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2002年07月04日(木) 啄木とその妻節子

 啄木(1886-1913) が節子(1886-1914) と恋に落ちたのは、盛岡中学校の学生で14歳のころらしい。節子も同い年の14歳。士族の娘で、盛岡女学校に通い、バイオリンを弾くお嬢様である。その頃すでに啄木は、雑誌「明星」を愛読し、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に心酔して、芸術至上主義の少壮歌人を気取っていた。

 節子の両親はもちろん二人の関係を認めるわけがない。しかし、そうしたなかで二人は長文の恋文をやりとりし、ますます恋心を募らせてゆく。節子も啄木に刺激されて、文学が好きになり、啄木を才能を信じるようになる。そのころ、啄木はどんな歌を作っていたのか。明治35年(1902年)10月の「明星」の短歌欄には、啄木のこんな歌が載っている。

  夢はかくて 恋はかくして はかなげに
  過ぎなむ世とも 人の云はば云へ

  雨の香を 鳩の羽に見る 秋の堂 
  紫苑さびしく 壁たそがるる

 やがて啄木は成績不振に陥る。とくに苦手なのは数学で、どうにも点数が取れない。そこでカンニングをしたらしい。これが発覚して、啄木は譴責処分を受ける。落第必死となった啄木は、中学校を退学し、あこがれの東京に旅立つ。明治35年10月31日、16歳のときだ。

「この秋、流転の水流に従って校を辞し、友とわかれ、双親とはなれ、故山を去り、恋ふ子の美しき面影とさへわかれて、孤影飄然(こえいひょうぜん)東都に出づ。嵯乎(さあ)、何人がよく遊子胸奥の天絃に知音たる者ぞ」
(日記、10月30日)

「午前。湧くなる我血汐も かくては遂に溢れなん。別れなればの涙に、わが恋しの君訪れ玉ひぬ。まこと今日のみならじ。わかれなればとて、永き宇宙の飄泛(ひょうはん)に、永遠を友とすてふ愛の世に、何の時か今日のみと云ふことおらむや。二つ並べる小笹舟、運命の波にせかれて、暫しは分るゝも、又の逢ふ瀬は、深き深き愛の淵の上に、波なき安けさぞ尊からむ。東都の春の楽の音に、共に目さめむも、こゝ六ケ月のうち。あゝさらば胸の轟きしづめて、蘋の身の、世の大波に暫らくはひとり南せんか。さは云へど、胸掩ふ愁ひの聖なるぞ 哀しや。うす紫に、わが好む装ひして、あたゝかき涙にくれ玉ふ、恋の心のたゞずまひ」
(日記、10月31日)
 
「せつ子君の美しきみ玉章来る、表紙には百合子と認められたるも、先づ、心ゆく想出也。かくて我は、また強き思郷の翼にぞかられぬる。わかれてよりの長き長き思ひ、いとしき美の筆に上りて、吾には、たとしへもなき尊さの絵巻物なり。胸に溢るめる感懐、あゝ吾恋しの白百合の一花よ。・・・夜深ふして、目白台の森地洩るゝ燈の先もあはし。想のみ走らせて、北なる星にさめぬるとこしえの瞳に、吾は落ちゆく弦月の影を拝したり」
(日記、11月8日)

「朝めさむれば、枕頭に匂ふ白百合のみ姿あり、せつ子の君、杜陵より新らしき写真たまひぬ。午砲の頃またその美しきみ文来る。み手づから編ませしてふ美しの枝折、歌さへ添えて。・・・今日にて吾はこの地にきてより正に三十夜の夢結ばんとす、飄々として遊子孤袖寒し、前途を想ひ恋人を忍びでは万感胸に溢れて懐泣の時を重ぬること三時までに及びぬ、あゝそれ何地にか天籟の響を風骨にたゞよはさん者ぞ」
(日記、11月30日)

「日記の筆を断つこと茲に十六日、その間殆んど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり」(日記、12月19日)

 窮乏生活の果てに病に倒れ、東京で出世するという夢に破れた啄木は、明治36年2月27日、4ヶ月の東京滞在を一旦うち切り、迎えに来た父に伴われて帰郷した。よれよれの紋付きさえもなく、意気消沈し、あの端正な顔が、栄養失調に歪んでいたという。

 しかし、この4ケ月の東京滞在は無駄ではなかった。与謝野鉄幹、晶子の知遇を得たからである。鉄幹は「君の歌は何の創意もない、失礼ながら歌をやめて、他の詩体を選ぶがよかろう。そうしたら君に、新しい世界が開かれるかも知れない」とアドバイスしてくれた。病の癒えた啄木は、新体詩に新たな活路を見出し、明治37年10月31日、処女詩集「あこがれ」の原稿を持って、再度上京する。

  混沌霧なす夢より、闇を土に、
  光を天にも割かちしその曙
  五天の大御座高うもかへらすとて、
  七宝花咲く紫雲の時の車・・・・

 明治37年、節子は女学校を卒業した。そして小学校の代用教員をしながら、東京の啄木のもとに嫁ぐ日を夢見ていた。しかしそのためには啄木との結婚を父に了解させなければならない。泣いて嘆願する娘の思い詰めた様子に、父もようやくしぶしぶ許可を与える。こうしてようやく二人の恋は実り、二人は結婚することになった。

 38年5月、処女詩集「あこがれ」の出版を果たした啄木だが、東京で生活するだけの経済的基盤は得られなかった。そこで節子との結婚のために東京をたち、故郷盛岡を目差す。ところが、啄木は結婚式に現れなかった。途中仙台で降りて、道草をしていたらしい。哀れなのはこんな頼りにならぬ新郎を夫に迎えた新婦だ。

 この時、啄木と節子は20歳。二人はやがて故郷を離れ、北海道に渡った後、最後に東京で節子と所帯を持つが、啄木は小説家としても、詩人としてもほとんど世に認めれらなかった。

  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
  花を買ひきて
  妻としたしむ

  猫を飼はば
  その猫がまた争ひの種となるらむ
  かなしきわが家

 啄木は窮乏のなかで肺結核を患い、明治45年4月13日、27歳の若さで死ぬ。翌年の大正2年5月5日、妻節子も同じく肺結核でこの世を去った。さらに数年のうちに、残された二人の遺児も次々と肺結核で死んで、とうとう啄木の一家は死に絶えることになった。

 しかし、大正8年、友人達の奔走の結果、啄木全集が刊行されると、彼の存在が世に知られるようになり、その人気はとみに高くなっていった。今日の日本人で啄木の歌を知らない者はいないだろう。啄木も節子もこれほどの名声は想像さえしなかっただろう。

  啄木は死の床で妻に日記を燃やせと言い残したようだ。そこには妻にとって読むに耐えない内容が書かれてある。啄木のせめてもの思いやりかも知れない。しかし、節子がそれを後世に残したのは、啄木の才能を信じ、後世の研究家に評価を委ねる気持ちがあったからだろう。

 一方、啄木が節子に送った数々の恋文は処分されて残っていない。節子はなぜ啄木の愛の形見を処分したのか。これはひとつのミステリーである。ともあれ、現在二人は函館の郊外の海の見える岬で静かに眠っている。

  汽車の窓
  はるかに北に故郷の
  山見えくれば襟を正すも  啄木

  光淡く
  こほろぎ啼きし夕より
  秋の入り来とこの胸抱きぬ  節子 ...

<今日の一句> あはれなる 詩人の妻よ 日陰の百合  裕


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