橋本裕の日記
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啄木の短歌や詩は、ある頃を境にして、別物のようにやさしくなった。ある頃というのは、明治41年、啄木23歳の頃である。それまで、明星派の歌人・詩人として、芸術至上主義の華麗で巧緻な作風を誇っていた。それが一転して、装飾を捨て、簡素で真率なものに変わった。
進境が著しかったのは明治41年6月23日である。この夜、啄木は突然歌興が湧いて、一晩で120首ばかり作った。歌興は明くる日も続き、啄木は6月25日の日記にこう書いている。「頭がすっかり歌になっている。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日の2時までに141首つくった。父母を歌うの歌約40首。泣きながら」
君に問ふ我らかくある一瞬に幾人生まれ幾人か死ぬ われ人に問はれし時にふと母の歳を忘れて涙ぐみにき 我が母は今日も我より送るべき為替を待ちて門に立つらむ こうしてできた歌を啄木はさっそく鉄幹に送り、「石破集」114首はこうして、「明星」7月号の巻頭を飾ることになった。しかし、それらの歌には鉄幹の手が入っていた。「鉄幹氏の直した予の歌は、皆原作より悪い。感情が虚偽になっている。所詮標準が違うのであろうから仕方がないが、気持が悪い」(7月10日)
ともあれ啄木は自分の道をさぐりあてた。啄木はこれまで短歌を芸術作品として作ってきた。しかし彼は短歌を自分自身の慰めのために、ただ自らの「自己表現のたのしみ」のために書き始めた。啄木自身、このことについて「日記」に次のように書いている。
「僕の今作る歌はきわめて存在理由の少ないものである。僕はそのことをよく知っている。いわば作っても作らなくても同じことなのだ」
「僕の今の歌はほとんど日記を書く心持ちで作るのだ。日記も人によって上手下手はあろう。しかし日記は上手下手によって価値が違うものではない」
「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密な報告、正直な日記でなければならぬ。従って断片的でなければならぬ」
「古今集を読み終えた。悪技巧にとらえられた歌が多くて、あっと思うようなのが少ない。よいと思うのは、たいてい万葉古今の過渡時代の歌だ」
伊藤整は「日本の詩歌、石川啄木」(中央公論社)の解説の中で、啄木の短歌の魅力の秘密についてこう書いている。
「啄木の詩から受ける感銘は、生活そのものの中でわれわれの心を去来するところの、瞬間的な人間くさい感銘であって、白秋や茂吉のように、和歌や詩の精神そのものの神聖視による、完璧な作品への願望が動機ではない。
そういう意味で短歌のことを、啄木は<悲しい玩具>と呼んでいた。短歌なる形式にいたずらをして、無理に自分の気の向くがままの遊び道具にしている間に、啄木の人間の痛切な心が、この形式の中にはまり込んだのである。
そしてそれが、万人の胸に真なるものとして訴えることとなった。彼の歌がことごとく、どこか投げやりに見え、しかも同時に真実の鏡のように見えるのは、以上のような独自の思想によるものである。
正岡子規は啄木より20年前に、歌を写生という真実に結びつけることで甦らせた。啄木は、歌をその時その人の短いつぶやきたらしめることによって、もっと大きな生命を与えたのである」
ふるさとの かの路傍のすて石よ 今年も草に埋もれしらむ
マチ擦れば 二尺ばかりの明るさの 中をよぎれる白き蛾のあり
その膝に枕しつつも 我がこころ 思ひしはみな我のことなり (一握の砂より)
啄木は芸術のための詩を作ることを止め、自分のために歌い始めた。そしてそこに現れてきたのは、非芸術的な生活の歌、人生そのものを対象にしたやさしい歌である。しかし、およそ芸術的といえないこの平明さの中に、私たちの心をひきつけてやまない魅力がこもっている。それは啄木の詩が、詩にあらざるところの「人生の詩」だからだろう。
<今日の一句> 啄木の かなしき歌よ 我が手見る 裕
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