橋本裕の日記
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2002年05月27日(月) 山の中の高校

 数年前に、自伝の4部作を書いた。「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「就職まで」がそうだ。一作書くのに1年間ずつ、4年間かかって書いた。毎日パソコンの前に坐り、一枚ずつ書いた。これを一年間続ければ360枚ほどの作品が出来上がる。

「就職まで」の次は「結婚まで」を書く予定だったが、もう4年間も中断している。ぼちぼち「自伝」の執筆をと考えていたが、書き出すとこれはかなりの負担になる。HPの日記帳は更新がむつかしくなるのではないか。そう考えて二の足を踏んでいたが、次第に残された時間も少なくなってきた。そこで、試みに週一回、月曜日の日記に「自伝」の続きを掲載することにした。

「結婚まで」は私の新任から数年間の教師生活が中心になる。教育に対する私の考えや、日本や愛知県の教育の現状に対する批判にも触れざるをえない。同僚の教師や生徒の思い出も書きたい。しかし、他人のプライバシーについて、これを暴露したり、蹂躙することは許されない。この点に留意しながら書く必要があるので、なかなか難しい作業である。さて、うまくいくかどうか。今日はその一回目である。

  ・・・・・・・・・<山の中の高校>・・・・・・・・・・・

 1979年3月某日、新規採用教員として私が最初に赴いた県立加茂丘高校は、西三河の山の中にある僻地の高校だった。当時のN校長から自宅に新規採用の電話があり、さっそく出かけて行った。当時私は名古屋市昭和区石川橋の下宿に住んでいた。地下鉄と名鉄電車を乗り継いで豊田市まで行き、駅前から加茂丘高校行きのバスに乗った。

 終点の加茂丘高校で降りたのは私ともう一人。顔を見合わせて、しばらくしてから、お互いに「やあ」と挨拶した。彼が社会科の新任の古川さんだった。中肉中背の彼は黒のダブルにサングラス姿である。28歳の私より4つほど下だったが、いかにも落ち着いていて、押し出しが堂々としている。というか、堅気の教員らしくない個性的な風貌なので、私はちょっと声をかけるのをためらったほどだ。

 バス停の傍らに校門があったが、そこから校舎が見えない。目の前に小高い丘があって、雑木が生えている。どうやら校舎はこの丘の上にあるらしい。「何だか研究所みたいじゃないか」といいながら、二人で並んで、校門から続くコンクリートの坂道を登って行った。

 五分ほどで丘の上にさしかかって、校舎が見えたきた。駐車場にまばらに職員の車が止まっている。春休みの最中で、あまり人影はない。校長室へ行くと、そこにもう一人、数学の新任の中山さんがいた。彼は古川さんよりいくらか若かった。坊主頭で色が浅黒く、プロレスラーのようなよい筋肉質の体格をしていた。彼は名古屋の家から直接車を運転してやってきたという話だった。

 古川さんは神奈川大学を卒業した後、やはり東京の大学の大学院に行っていたということだ。中山さんは京大の数学科を卒業して、新卒での採用らしい。私は名大の大学院の物理学科を中退して教職への転向だった。新任の3人はすぐに仲良しになった。もちろん悪い遊びも一緒にした。

 ただ、校長がこの時私だけに、「こんな田舎の高校ですまないが、2年間ほとは我慢して下さい」と言った。2年後、この言葉は現実になる。そして豊田市の新設高校に行くのだが、それまでの間、私は各学年3クラスというこじんまりとした田舎の学校でのんびり過ごすことができた。この学校や学校の仲間が気に入っていただけに、転勤と聞いたときは、ほんとうにがっかりしたものだ。
                             (「結婚まで」第1回 終わり)

<今日の一句> 病癒え 口笛吹きぬ 青田道  裕


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