橋本裕の日記
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NHK教育テレビで「英会話」を勉強している。その中に、アメリカの大学の英語の授業風景をそのまま見せてくれる番組がある。英語を母国語としない国際色豊かな学生たち(日本人、中国人、インド人、ヒスパニック系など多彩な人種)が対象なので、私も彼らとともに授業に参加したような気になって見ている。
授業は講師と生徒達との対話で成り立っている。黒板を使って講師が字句の説明をしたり、生徒達が黒板に文章を書いたりするが、それも対話の一部であり、お互いに顔を見合わせ、しっかりコミニュケートしている。授業中にうつむいてノートを取っている学生は誰もいない。日本の授業風景と随分違っている。
授業の内容は新聞の文章の解説とか、選挙や野球の話とか多岐に及ぶが、固苦しさはなく、実践的で、教師の質問に答えているうちに、自然に英語を使っている。英語を勉強するというのではなく、英語でいろいろなことを考え、表現しようというねらいだ。
英語の単語を取りあげる場合でも、その単語の使われる社会的文脈の中で行き届いた解説が行われる。たとえば選挙で使うrun-offという単語を解説する場合は、野球のplay-offの取りあげながらその用法の類似性を指摘する。そうすると一度聞いただけで、もう忘れることはない。知識の定着のための反復練習など少しも必要がないのである。
発音の矯正も行き届いていて、その生徒がしっかり発音できるまで、ときには黒板に楽譜のようなものを書いたり、喉に手を当てたり、さまざまな工夫をしながら、わかりやすく説明する。指導がいちいち具体的である。そして最後は必ず、全体に声を出させてチェックする。それは決しておざなりな反復練習というものではない。
知識の記憶に機械的な反復練習が有効なのは、人生経験が少なく、知能が未熟な段階である。いわゆる「9歳の壁」を超えたら、知識はむしろ意味のある文脈の中で効果的に定着する。その上、社会的文脈の中で関連つけられ、体系付けられた知識は、生きた知識としていつでも活用ができる。
アメリカの授業風景のルポを読んだことがあるが、対話形式が一般的で、ピアジェに代表される現代的な認知心理学の学習理論が充分考慮されているように思われた。たとえば、生徒が前に出て、自分でテーマを考えてスピーチをする。それに対して、他の生徒が次々に意見を述べる。分からないところや知識の曖昧なところが出てきても、教師は答えを言わない。次の授業までに調べさせて、誰かに報告させる。こうした議論と対話を通して、知識を確実に身につけて、しかも各自が自分の主張をはっきりと発表するプレゼンテーションの能力を向上させて行く。
知識の習得で終わらず、いかにその知識を活用して、自分なりの考え方を作り上げ、さらにそれをいかに的確に表現して、他者を説得し、同意と賞賛を得るか、すべてはこうしたことのための学習であり切磋琢磨である。知識の機械的な受容を第一とする一方的な注入形式の詰め込み式の授業とは、まるでそのスタイルも目差すものも違っている。こうした教育から有能な政治家、外交官、弁護士や企業家が生まれるのだろう。まさに「現代を生きる力」に直結した実践的な授業だと言える。
ところで、これに近い教育は日本で可能だろうか。手前味噌になるが、私も以前、このアメリカ方式を採用し、成功したことがある。私のささやかな教育実践を、あしたの日記で報告しよう。
<今日の一句> 木洩れ日に 君の名残の あたたかさ 裕
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