橋本裕の日記
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| 2002年05月23日(木) |
腰・ハラ文化を考える |
斉藤孝さんの本がよく売れているらしい。職員室の私の隣の国語の先生の机の上に、「声に出して読みたい日本語」があったので、無断で読ませてもらった。日本文学にある名文、詩、短歌、俳句、古典や中国の漢詩など、活字が大きいし、馴染みのある文章ばかりだから、すぐに読めた。斉藤さんは前書きにこんなことを書いている。
「ここに取り上げたのは、日本語の宝石です。暗唱、朗唱することによって、こうした日本語の宝石を身体の奥深くに埋め込、生涯にわたって折りにふれてその輝きを味わう。こうした宝石を身体に埋めるイメージで楽しんでください」
彼には他に[身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生] (NHKブックス)などという著作もある。日本の20世紀を、身体をなおざりにした100年と総括し、身体文化の中心軸としての腰・ハラ文化に着目している。
頭脳中心の西洋文化に対して、日本の文化は「踏ん張る」「期待を背負う」「腹が立つ」「肝が冷える」など「からだ言葉」が豊富である。ところが最近は日本語からこうした身体感覚が喪失してきている。こうした身体語の衰退が青少年の非行や、すぐにキレる忍耐力の不足、情緒不安定など結びついているという。そこで「身体性を重視した伝統文化の復活」という彼の処方箋が説得力を持ってくる。
文化を「身体」のレベルから捉え、教育問題にも一石を投じた彼の文章は、とてもわかりやすく、実践的で、読んでいて面白い。万葉集を愛唱し、名文を読むことを楽しみにしている私には異存などあるはずもないのだが、どうも腑に落ちない。
結論から言えば、私は体で覚えさせるという斉藤流教育論や暗唱という国語教育のあり方に反対である。また伝統の尊重ということについても、それが「腰・ハラ文化の尊重」という次元に矮小化されてはならないと思う。「身体主義」は必ず幼稚な「精神主義」に移行する。このことについては、いずれもう少し踏み込んで書いてみたいと思っている。
<今日の一句> 風そよぐ 若木のごとき 少女来る 裕
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