橋本裕の日記
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エルサレムに「聖なる石」がある。旧約聖書に書かれたこの石を、ユダヤ教徒は聖なる場所と考えている。どうように、この同じ石を、イスラム教とも崇拝している。なぜなら、コーランには教祖マホメッドがこの石から天に飛び立ったと書かれているからだ。彼らにとって、この石こそ世界の中心であり、宇宙の中心なのだろう。
もちろん、これは宗教上の立場であって、現代の科学者は、そのような場所を、何か特別な空間だとは考えない。それでは、はたして宇宙に中心と呼べるような特別な点が存在するのだろうか。それはなにをもって「中心」と定義するかにもよる。たとえば宇宙の重心がそうだとすれば、どこかにその点はあるのだろう。しかし、そのような点が何か特別な意味を持った聖なる点だというわけではない。
天動説が信じられていた頃は、地球の中心が宇宙の中心だった。万物はこの中心に向かって引かれる。私たちが今日重力と呼んでいる力がこれである。こうした力を生み出す源泉として、地球の中心は宇宙の中心と呼ぶに相応しい、聖なる点だと考えられた。
コペルニクスが唱えた地動説によると、宇宙の中心は地球ではなく太陽だということになる。動いているのは地球で、太陽こそ不動の中心である。この考えは教会から異端視され、迫害された。しかし、やがて一般に受け入れられていく。
ただ、天動説で困ったのが、重力の問題である。太陽が宇宙の中心だとすると、地球の中心に向かう「神秘的な力」はどう考えたらよいのだろう。これまでは宇宙の中心だということで説明できたが、もはやこうした説明は説得力を失う。それでは何故、物体は地上に落ちるのだろうか。
この問題に解決を与えたのが、ニュートンの「万有引力」の説だった。この説によれば、地球ばかりではなく太陽でさえもが宇宙の中心ではなく、宇宙に無数に存在する物体のひとつに過ぎないということになる。リンゴは地球の重心へと引きつけられるが、地球もリンゴの引力を受けている。質量の違いが、力の大きさの違いを生み出している。
宇宙に特別な空間や、特別な物体が存在しないというニュートン力学の世界は、人間の知性にとって大きな収穫だった。しかし、ニュートンによって、すべての謎が解決されたわけではなかった。力とは何か、質量とは何か、こうした本質的な謎が現れてきた。この謎に挑戦したのがアインシュタインである。
アインシュタインの学説には興味があるが、今は話をもとにもどそう。宇宙に中心はあるのか。現代科学は、そのような特別な点が宇宙にあるとは考えない。時間と空間、そこで行われる物体の運動はすべて相対的で、絶対的なものではない。この考えはガリレオから始まり、ニュートン、アインシュタインと受け継がれ、徹底してきた。
しかし、それは科学の立場である。人間の立場に立つと、また違った考え方ができそうだ。たとえば釈迦の唱えた「天上天下唯我独尊」などがそうだろう。パスカルが言うように、私たちはこの広大な宇宙の中で、粟粒のような微少な存在かもしれない。しかし、考えるという行為によって、私たちは宇宙をも包むことができる。
私たちはこの世界の中心をいつも自分の外側に求めてきた。しかし、その中心点を、私たちの内部に求めてみてはどうだろう。そのとき、私たちひとりひとりが、かけがえのない宇宙の中心だということに気付くだろう。人生の風景がすこし違って見えてくるかも知れない。
<今日の一句> われひとり 河原に来れば おぼろ月 裕
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