橋本裕の日記
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北さんたちと琵琶湖湖畔にある高月町を訪れ、渡岸寺と立石寺の十一面観音さまを拝んだのは去年の11月3日のことだ。明くる日の日記に、私はこうかいた。
「渡岸寺の観音さま(国宝)は気品がただよい、匂うような美しさだった。立石寺の観音さま(重文)は唇がほのかに赤くて、いかにも庶民的でほのぼのしている。対照的な美しさを持つ二体の観音さまを間近に拝めて、ほんとうに満ち足りた思いで、雨の高月町をあとにした」
ちなみに、十一面観音はインドで誕生し、サンスクリット語で、「エーカーダシャムカ」(十一の顔を持つもの)という。玄奘の漢訳した「十一面神呪心経」によると 十一面観音像は以下のように定義される。
「左手は紅蓮華を挿した水瓶を持ち、右臂を伸ばして数珠を掛け、施無畏印を結ぶ。頭は前の三面を慈悲相に、左辺の三面を瞋怒相に、右辺の三面を白牙上出相に、後ろの一面を暴悪大笑相に、頂上に仏面を作る。各面の冠に仏身を作る。菩薩の身体には瓔珞など種種の荘厳を具える。」(日本の美術 4「 十一面観音像・千手観音像」)
旅から帰り、折に触れて、これらの観音菩薩のことを調べたり、いろいろと考えてみた。それにしても、この十一面観音というのは、何という不思議な姿をしているのだろう。観音様でありながら、怒りや笑いや様々の表情をした顔を持っているのは何故だろう。たとえば、一般的に次のような面を持っている。
本面 ------菩薩本来の慈悲の相 頂上仏面---究極の理想としての悟りの相 化仏-------十一面観音が仏の慈悲の心を実践する菩薩であることを示す 菩薩面-----善い衆生を見て、慈悲の心をもって楽を施す 瞋怒面-----悪い衆生を見て、怒りをもって仏道に入らせる 牙上出面---清らかな行いの者を見て、讃嘆して仏道を勧める 大笑面-----善悪雑穢の者を見て、悪を改め、仏道に導く
こうしたことから、十一面観音の姿は、「十界互具」で説く「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・仏」の姿ではないかと思われてきた。そして「一念三千論」の解説を書いたりしたのだが、今日は、そのことについて、もう少し補足しておこう。
観音はいうまでもなく菩薩の境涯にある。しかし、「十界互具」ということがあり、菩薩の境涯のなかにも、十界が備わっている。つまり、菩薩であっても、修羅の相を帯びたり、ときには地獄の相を帯びることがある。そしてまた、仏の相も帯びる。
それは母親が子供を叱るときの表情にも似ている。子供を思う母親の境涯は菩薩の位だと言ってもいいだろう。その母親が子供を叱るとき、声を張り上げ、ときには修羅の相を帯びる。また、子供の安全を脅かそうとする邪悪な存在については、怒りの相を帯びる。
このことは仏であっても同じだろう。どんなに高い悟りを開いた人でも、時には怒り、哀しみ、そして笑うときもあれば、泣くときもある。十一面観音の不思議な魅力は、こうした菩薩や仏の変幻自在で自由な精神の姿を写しているのではないかと思うのである。
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