橋本裕の日記
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昨日は中村さんの発明を紹介したが、そのとき彼のいた徳島県の日亜化学工業という会社について、あまりいいことはかかなかった。しかし、中村さんは彼の著書で、一方的にこの会社を非難しているわけではない。むしろ、ある意味ではおおいに評価している。
それはそうだろう。こんなに小さな会社が、海の物とも山の物ともわからない研究に、さまざまな苦情をいいながらも、とにかくお金を出し続けたのである。一年間、アメリカの大学に留学さえ認めている。研究中止命令を無視して、会議にも出なくなった中村さんを、解雇もしなかった。普通の会社では考えられないことである。
中村さんは東芝の入社試験を受けて落ちている。しかし、もし彼がこうした大企業に就職していたら、彼の発明はなかっただろう。「青色発光ダイオード」の発明は、中村さんが徳島県の片田舎にある日亜化学工業という中小企業に就職したからこそ可能だったのだ。
日亜化学工業は現会長の小川信雄氏が1956年に創業した。彼は徳島大学薬学部を卒業し、太平洋戦争では薬剤師として激戦地ガダルカナルへ行った。彼はそこで、占領軍の部屋で、蒼白い光にであって感動する。それが彼が始めて目にした、蛍光灯の光だった。
戦後、彼は専門知識を活かして製薬会社を興し、抗生物質ストレプトマイシンを製造する。しかし、売れなかった。品質では大手の会社のものよりはるかに良質だが、地方の小企業の薬は見向きもされない。会社のある徳島県東部の阿南市はわずか人口5万の地方都市に過ぎない。こんなところに本拠を置くマイナーな会社の製品をだれも信用しないのだ。ブランドの力は大きい。
それではどうやったら、東京や大阪の大企業に太刀打ちできるのだろう。そのとき、小川氏の頭の中に、ガダルカナルで出会った蒼白い光が甦ったのだという。蛍光体ならば、品質が一目でわかる。これなら大企業と勝負できると考えた。そこでさっそく蛍光体の生産にとりくみ始めた。
蛍光体の特許はアメリカのゼネラル・エレクトリック社が持っていたが、日本の大企業は特許料をはらっていなかった。小川さんはこれではいけないと思い、まず特許の正式な使用を求めた。ゼネラル・エレクトリック社はこれを評価して、使用権をすべて日亜化学工業にくれたのだという。
こうして、中村さんが入社したとき、日亜化学工業は地方の企業といいながら、蛍光体では国内トップクラスのシェアを持っていた。年間の売上高は40億円、従業員も180人ほどいたという。
日亜化学工業では、「勉強しよう。よく考えて、よく働こう。そして世界一の商品をつくろう」をスローガンにしていたが、小川氏はこの言葉を繰り返すだけで、研究開発につては社員の自主性を尊重したという。
日亜化学工業ではすでに20年も前から、夏休みが20日間もあったという。小川氏はこのことについて訊かれたとき「20日間の夏休みなど、欧米の企業に比べれば珍しくも何ともない」と答えたという。何事も日本が基準ではなく、つねに世界のレベルで考えていた。
そんな小川氏のもとに、中村さんは「青色発光ダイオードを作らせて下さい」直談判にいったのだという。小川氏は「やってみろ」と言って、3億円の研究開発資金を出してくれた。これは当時の日亜化学工業にとって、年間売上高の1.5パーセントに相当する大金だった。さらにアメリカへの留学も認めてくれた。世紀の発明が日本から生まれることになった背景に、こうした決断ができるトップがいたことを忘れてはならない。
ちなみに、日亜化学工業はバブル期にも不動産投機に走ったりしなかった。多くの日本を代表する企業や銀行が投機に走る中、日亜化学工業は利益を研究技術開発に集中し、堅実な企業経営をした。こうした会社だからこそ、中村さんも解雇されずに、腰を落ち着けて地道な研究を続けることができたのだろう。
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