橋本裕の日記
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ヨハネ伝に「律法はモーゼをとおして与えられ、恵みとまことは、イエス・キリストをとおしてもたらされた」という言葉がある。若い頃の私は、この言葉に感激し、「旧約聖書」に描かれた神の義とか怒りには馴染めなかった。むしろ、個人の魂の救済をテーマにした「新約聖書」に多くの共感を抱いた。
しかし、歳をとるとともに、「旧約聖書」の世界に心が傾くようになった。昔あるひとから、「ある程度歳をとらないと、旧約聖書はわからないよ」と言われたが、この歳になってなるほどと思う。
人間の生の領域は、「個人の領域」を越えて、「共有の世界」にまで広がっている。この広がりがわかるにつれて、「旧約の世界」もまた、よく見えてくるようになるのだと思う。そして、そのためには、人はある程度の人生経験をへなければならない。
共有の世界とはなにか。それは私たちが生を受けているこの世界である。それはこの豊かな自然であり、国家であり、民族であり、そしてさまざまな共同体や家族である。しかし、それはこうした単に目に見えるものばかりではない。学術や文化、芸術、言語や技術も又そうした広大な世界に属している。更に大切なことがある。それはこの共有の世界は私たちの世代を超えて過去と未来に広がっているということだ。
この点をもう少し詳しく書いておこう。歴史哲学者ハンナ・アレントによれば、人間は二つの領域の生を生きている。ひとつは個人の人間に属する「個人的な領域」であり、もう一つは人類の文明世界、あるいは自然界といった「共有の世界」である。そうして、アレントはこんな風に続ける。
「われわれは生まれたときに、共有の世界に入り、われわれが死んだあとも共有の世界は残る。・・・共有の世界は、われわれの生命が続く期間を超え、過去と将来の世代につながる。それは、われわれが生まれる以前から存在し、われわれが短い期間そこに住んだあとも、存在し続ける。それは、われわれと同じ時代に生きる人だけでなく、かって地上に住んだ人たち、われわれが死んだあとに生まれてくる人たちとも、共有するものである」(人間の条件)
私たちが単に個人の力で生きているという考えが、現代のように、個人主義に名を借りた利己主義の横行する時代では一般的な風潮にさえなってしまっている。しかし、それは幻想である。私たちは社会や自然によって保護されなければ、一刻も生き延びることは出来ない。
つまり、私たちは個人の領域をとりまくはるかに大きな共有の世界を持っており、この永遠なものを通して、私たちは過去と未来につながって生きているのである。もし私たちがこの人生に対する根本認識を失うならば、私たちの人生はきわめて視野の狭い刹那的なものになってしまうだろう。反対に人がこの永遠なものの認識にふれるとき、人生の意義もまた、自ずと明らかになる。
ラスコーリニコフやスビィドリ・ガイロフの抱いた「虚無」をどのように捕らえたらよいのか、それは私たちの人生でどのような意味を持ち、どのように超克されるのか。この「共有の世界」の考え方がヒントになるだろう。東洋的な「無の世界」や宗教的悟達という方法に親しみを覚えないわけではないが、私にはこれは一つの逃避であり、精神的頽廃ではないかと思われる。
(こうした視点から、私は5年ほど前に「人間を守るもの」という作品を書いた。興味のあるかたは、ご覧になって下さい)
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