橋本裕の日記
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| 2001年12月04日(火) |
スビィドリ・ガイロフの地獄 |
昨日に引き続き、「罪と罰」について書こう。ラスコーリニコフの分身で、冷血漢そのものと言うべき恐るべき人物にスビィドリ・ガイロフがいる。彼は善悪を無視し、本能のままに生きる。そして、十三歳の少女を犯して、彼女を自殺に追い込みながら、何の悔悟も覚えない。
無信仰の彼が天国や地獄を信じているとは思えないが、もしそのようなものがあったら、それは「隅々に蜘蛛の巣のうずくまっている狭苦しい田舎の湯殿」のようなものかもしれないという。彼のニヒリズムは来世さえもこうした散文的な風景として描く。
「われわれはげんに、いつも永遠なものを不可解な観念として、なにか大きなもののように想像しています。が、なぜ必ず大きなものでなければならないのでしょう。ところがあにはからんや、すべてそういったようなものの代わりに、田舎の湯殿みたいな、すすけたちっぽけな部屋があって、そのすみずみにくもが巣を張っている、そして、これがすなわち永遠だと、こう想像してごらんなさい。じつはね、私はどうかすると、そんなふうなものが目先にちらつくことがあるんですよ」
こうしたスビィドリ・ガイロフの言葉に、さすがのラスコーリニコフでさえ、「一種の悪寒」を覚えざるを得なかった。スビィドリ・ガイロフは家庭教師をしていたラスコーリニコフの妹を追いかけてペテルブルクまでやってきて、こんな哲学談義の後、ラスコーリニコフに1万ルーブルをちらつかせながら、彼の妹のソーニャに会わせてくれるよう依頼する。
もちろんラスコーリニコフは断るが、スビィドリ・ガイロフはその後、手管をつかって、ソーニャを手込めにする寸前まで行く。しかし、彼は突然、これを断念する。そして、ソーニャに善行までほどこして、自らは死におもむく。最初から最後まで、何とも謎の多い人物である。
人類の共同世界から追放された人間は、いずれもこのような耐え難い虚無を生きなければならないのだろうか。ドストエフスキーはこうした虚無に生きる人間の真実を追究して、みごとなまでに成功を収めている。
ある意味で、ラスコーリニコフやスビィドリ・ガイロフは、私たちの内部ある観念を具現化した人物であり、私たちの分身でもある。なぜなら、現代に生きる私たちもまた、高度に発達した文明の幻影に包まれて、その虚無を内面に抱きながら、しかもその虚無に気付かず、その日その日を目先のことで紛らわせてあくせくと生を消耗させているからだ。
たとえば、チェーホフの登場人物がそうである。「子犬を連れた奥さん」のグーロフに、私たちはもう一人のスビィドリ・ガイロフを見出すことが出来よう。チェーホフのすぐれている点は、ドストエフスキーと対照的に、そのような取るに足りない平凡な市民の日常生活を描きながら、そこに存在する虚無の問題をするどく追求して見せたことだろう。
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