橋本裕の日記
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2001年12月03日(月) ラスコーリニコフの孤独

 ドストエフスキーは「罪と罰」について、編集者カタコフあてに売り込みの手紙をだして、主人公のラスコーリニコフについて、「犯行の直後からまざまざと実感するようになった人類との断絶感、分裂感が、彼をぶちのめしたのです」と書いている。

 たしかに「罪と罰」は人類という共同世界から追放された孤独な人間の悲劇の物語である。この悲劇がもたらされた直接の原因は、彼が金貸しの老婆ばかりでなく、その妹までも殺害した犯行の結果だが、実は、それ以前に、彼の心の中に胚胎していたとみることができよう。

 彼は犯行後、ネヴァ河の橋の上にたたずみ、宮殿の見える壮大なパノラマを見つめる。そこは彼にとって、大学に通っていた頃からの馴染みの場所だった。しかし、彼は当時から、この眺めに違和感を抱いていた。

「いつもこの壮麗なパノラマが、なんともいえぬうそ寒さを吹き付けてきたのだった。彼にとってこの華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に満ちているのであった」(米川正夫訳。以下同じ)

 ラスコーリニコフは、この世界の繁栄はみせかけの張りぼてにすぎないと考え、心象風景として、「口もなければ耳もないような、一種の鬼気に満ちた世界」を感じていたのである。この感覚が犯行後まざまざと顕在化してくる。

「どこか深いこの下の水底に、彼の足もとに、こうした過去の一切が、以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何もかも見え隠れに現れたように感じられた」

 このあと、ラスコーリニコフは商家の女から乞食とまちがえられて、「キリストのために」と声をかけられ、一枚の銀貨を渡される。

「彼はこぶしを開いて、じっと銀貨を見つめていたが、大きく手を一振りして、水の中に投げ込んでしまった。それから踝を転じて,帰途についた。彼はこの瞬間、ナイフかなにかで、自分というものをいっさいの人と物から、ぶっつり切り離したような気がした」

 ここに描写されているのは、たぐいまれなニヒリズムの心象風景である。とくに「口もなければ、耳もない」という表現が利いている。それはチェーホフの主人公がヤルタの海岸に見た「永劫の世界」とも一脈通じながら、しかもその対極にある寒々とした孤独な風景だといえる。

 ロマノフ王朝の栄華をきわめた壮麗な宮殿と、ラスコーリニコフの暮らす人生の悲惨に満ちた貧民窟の人々の暮らし。ラスコーリニコフはこの繁栄と窮乏の対照の中に隠された恐ろしい欺瞞に気付いていた。しかし、彼はこの「欺瞞」を「虚無」というかたちでうけとる。ラスコーリニコフの悲劇の大本は、ここにあったのではないかと思われる。

 私たちは普通は「目鼻立ちの整った」日常の世界に暮らしている。しかし、何かの折りにこの仮面がはずれて、「世界そのもの」の混沌とした姿をかいま見る瞬間がある。しかし、私たちは直ちにその「目鼻立ちのない」世界から目を背ける。そしてまた、日常性に覆われた、見せかけの世界に復帰して、安心する。

 プラトンはこの世界を幻影の世界だと考えた。私たちは洞窟の中にいて、光に背を向けて暮らしている。そして洞窟の壁に映る影を眺め、それを真実の世界だと考えている。それではなぜ、光(真理)に背を向けて立つのだろうか。

 それは直接その光を眺めると、目を痛めるからである。幻影の世界を本当の世界だと考えてきた人間は、そうした「真実の世界」の強烈さにたえられない。「目も鼻も口もない姿」におぞけを感じるのである。だからプラトンはすこしづつ、目を慣らしなさいと忠告する。

 洞窟の奥から、すこしずつ入り口の方に場所を移して、真理の光に親しむのである。そうすると、今度は欺瞞に満ちた幻影の世界がまざまざとよく見えてくる。ラスコーリニコフの悲劇は、真理の光に背を向けながら、しかもまざまざとこの世界が幻影であり、欺瞞であることに気付いてしまったことだろう。そして、さらに大きな悲劇は、自分自身を「真理の光」だと過信したことだろう。


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