橋本裕の日記
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昨日に続いて、チェーホフについて書こう。私の好きなチェーホフの短編に「犬を連れた奥さん」がある。主人公のグーロフは四十前の男である。結婚して3人の子どもがいるのに、女遊びに熱中して、家にもよりつかない。
女のことを「低級な人種」と公言しているくせに、この「低級な人種」なしでは二日と生きていけないという女好きである。そんな俗物の主人公グーロフが保養地ヤルタにやってきて、犬を連れた、小柄なブロンド髪の奥さんを見初める。知り合って一週間ほどしたころ、グーロフは奥さんをヤルタ郊外の海岸に連れ出す。
「オレアンダでふたりは教会からほど遠からぬベンチに腰かけて、海を見下ろしながら黙っていた。ヤルタは朝霧をとおしてかすかに見えた。山々の頂には白い雲がかかってじっと動かない。木々の葉はそよりともせず、朝ゼミが鳴いていて、はるか下の方から聞こえる海の単調なにぶいざわめきが、われわれ人間の行く手に待ち受けている安息、永遠の眠りを物語るのだった。 はるか下のそのざわめきは、まだここにヤルタもオレアンダもなかった昔にも鳴り、今も鳴り、そしてわれわれのない後にも、やはり無関心なにぶいざわめきをつづけるのであろう」(神西清訳。以下同じ)
こうして、グーロフは、この若い人妻と何度か逢い引きを経験した後、モスクワに帰ってくる。グーロフはこれまでそうして多くの女とかかわり、別れてきた。だから、今度の女の場合も、たんなる行きずりの関係だと思っていた。そして、再会する希望や願望さえ抱いていなかった。
ところが、モスクワに帰って1カ月がたち、クラブや晩餐会に顔を出し、医師会館でトランプをしながらも、この女のことがふと、頭にうかんでくる。そればかりではない。彼は自分の日常生活がしだいに我慢のならぬ醜悪なものにさへ感じられてくる。
「何という連中だろう。何という無意味な毎晩、何というつまらない灰色の生活だろう。狂ったようなトランプ遊び、暴飲暴食、役に立たない仕事と、くどくどと繰り返す決まり切った話とに、最良の時間と精力が取られて、どどのつまり残るものは何やら中途半端な飛躍のない生活・・・・」 グーロフはいたたまれなくなり、女に会いに行く。
「グーロフは女に近寄り、その肩に手をかけて、女を愛撫し、すこしおどけて見せようとしたが、そのとき鏡の中に自分の姿を見た。この数年のうちにこれほど老け、これほど醜くなったのはふしぎに思われるほどだった。グーロフの手に触れている肩は暖かくて、震えていた。まだこんなに暖かくて美しいこの生命も、グーロフの生命と同じように、まもなく色あせ萎びはじめるのだろう。グーロフはそんな女の生命に哀れを催した」
「グーロフは女たちと知り合ったり、親しくなったり、別れたりしたが、愛したことは一度もなかった。その他のものは何でもあったが、愛だけはなかった。そして頭が白くなり始めた今、グーロフはまともに、ほんとうに、生まれてはじめて愛したのである」
「二人はお互いに過去の恥ずかしい行為を赦し、現在のすべてを赦しあい、この恋が二人のどちらをも変えてしまったように感じるのだった。昔のグーロフは、悲しいときには思いつく限りの理屈で自らを慰めたものだったが、今はもう理屈どころではなく、感じるのは深い憐れみばかりで、ひたすら誠実にやさしくありたいと思うのだった」
グーロフはこうして、生まれて初めての、切ないほどに純粋な恋に落ちる。そして、あの好色漢で俗物の彼がこんな風に人生を考えるようになる。「よくよく考えてみれば、究極のところ、この世の一切は何と美しいのだろう。人生の高尚な目的や、わが身の人間としての品位を忘れて、われわれが自分のために考えたりしたりすること、それを除いたほかの一切は」
チェーホフがこの作品を書いたのは三十九歳の時だった。彼はすでに結核に蝕まれ、5年後に訪れることになる死を予感して、自分の全集の編集に心血を注ぎ始めていた。グーロフはある意味でチェーホフの分身であり、「よくよく考えてみれば、究極のところ、この世の一切は何と美しいのだろう」という主人公の感懐は、チェーホフの末期の目に映った自然と人間の姿でもあったのだろう。
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