橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2001年12月01日(土) 簡潔な文章の魅力

 日記を書くために、ドストエフスキー全集を久しぶりに手に取った。「カラマーゾフの兄弟」の中の「大審問官」に一通り目を通したが、なつかしかった。ただ、いささか文章が冗漫なのが気になった。

 彼の文章や作品が長いのは、原稿料稼ぎのためだという説を以前読んだ覚えがある。本題にはいる前に、当時流行したらしい思想や、なんだか怪しげな学説をもったいぶって書いている。こういうところは、現在の私には何の興味もないので、飛ばし読みするしかない。

 いきおい、会話だけ目を通すという横着な読み方になるのだが、それでも意味は通じるし、かえって緊迫感が出て面白いのである。さすが、ドストエフスキーだなと、そのうまさに脱帽である。

 ところで、ドストエフスキーはかなり創作手帖や手紙などで、創造の舞台裏なども書き残していて、こちらのほうも読んでいて面白い。たとえば、ソーニャ・コツレフスカヤにあてた手紙にはこんな一節がある。

「作家としての最大のこつは、消し方の上手ということです。自分の書いたものを消すことを心得、かつその力を持っているものは進歩します。すべての大作家は実に簡潔に書いたものです」

 こうした文章を読むと、ドストエフスキーも簡潔に書く努力をしていたことがわかる。原稿料稼ぎのために長く書いたなどと言われるのは、心外なことかもしれない。しかし、この言葉が似合うのは、ドストエフスキーよりも、チェーホフではないだろうか。そこで、いくつかチェーホフの言葉を引いてみよう。

「ものを書く技術とは、実を言えば、書く技術そのものではなく、下手に書かれたものを削る技術なのです」(ラーザレフ・グルジェンスキーの回想)

「海が息づいたり、空が眺めたり、荒野が甘えたり、自然が囁いたり、話したり、悲しんだり、こういう比喩は描写をいくらか単調に、時には甘ったるく、時には不明瞭にします。自然描写における色彩の豊かさや表現力は、ただ素朴さによってのみ、つまり、『日が沈んだ』、『暗くなった』、『雨が降っていた』など、こうした素朴な言葉によってのみ達せられます」(ゴーリキーへの手紙)

 たしかに、これはまさしく、チェーホフらしい言葉だと納得する。ロシアの詩人で小説家・批評家のメレジェフスキーは、「チェーホフの簡潔さは、時には気味の悪くなるような簡潔さだ。なんだか、もう一歩この道を進めば、もう芸術の終わり、人生そのものの終わりと言った感じだ」と書いている。

 ドストエフスキーの文章が冗漫に見えるのは、たぶんチェーホフのこの気味の悪いほどの簡潔さを知っているからだろう。もう一人、ゴーリキーのチェーホフ評から引用しておこう。

「チェーホフの物語を読むと、晩秋のもの悲しい日に、空気がとても透き通っていて、その中で裸の樹木や狭い家や、灰色の人々がくっきり描き出されている時のような感じがする」

 さて、チェーホフの言葉の中で、私がとくに好きな言葉がある。
「僕には、神、ペシミズムなどといった問題を解決せねばならないのは、小説家ではないような気がします。小説家の仕事は、誰が、どんなふうに、いかなる環境のもとで、神あるいはペシミズムについて話したか、また考えたかを描くだけです。芸術家は、自分の作中人物や、彼らが語ることの裁判官になるべきではなく、ただ公平な証人になるべきです」(A・S・スヴォーリンへの手紙)


橋本裕 |MAILHomePage

My追加