橋本裕の日記
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初代の文部大臣森有礼(1847〜1889)は、日本語を廃止して英語を日本人の母国語にすべきだと考えていた。その理由は、日本語は思想や哲学や科学をするのに不向きだと考えたからだ。論理的な思考に向いていない、こうした劣等な言語を使っていては、とうてい西洋列強に伍することが出来ないと思ったのだろう。
戦後になって、志賀直哉が「日本語を止めて、フランス語にすべきだ」という主張をしている。「森有礼が考へた事を今こそ実現してはどんなものであらう。森有礼の時代には実現は困難であつたらうが、今ならば、実現出来ない事ではない」と。さらに、森有礼がいうように国語を英語にしていたら、「恐らく今度のような戦争は起つてゐなかつたらうと思つた」と書いている。
簡潔で美しい日本語を創造した国民的な作家であり、「文学の神様」といわれた人の発言だけに、世間の人は驚いたに違いない。その後日本は奇跡の経済復興をはたし、湯川秀樹のような優秀なノーベル賞受学者をだしたこともあって、日本語は論理的思考に不向きな言語であるというコンプレックスもなくなった。
少なくとも、現代の日本語は、数学や物理の論文を書くのに特別不便だということはなさそうである。また、日本語を母国語にしていると再び戦争が起こるということもなさそうである。しかし、森有礼や志賀直哉のような問題意識を持つことは悪いことではない。日本語に限らず、母国語の特性についての健全な懐疑精神はこれからも必要であろう。そのためには、外国語を学び、母国語との発想の違いを知っておくことも大切である。
You will have my saport. (あなたをサポートします) You shortchanged me. (お釣りが足りません) The rain caught me. (雨に降られました)
たとえば、このような英語に出会ったとき、私たちは「おや」と思うはずだ。英訳しろと言われたら、私たち日本人は「私」を主語にした文章を作るだろう。たとえば、「I will saport you.」と書くのではないだろうか。
もちろんこれで間違いではないし、受験英語なら正解(correct English)だろうが、これは英語的発想に立ったgood Englishとは言えない。つまり、ほんとうのところ、あまり上等な英語ではないのである。
英語的発想とは、話者中心にではなく、むしろ相手を中心にして物事を考えるということがある。だから、「I」ではなく、「You」が文頭に来る。そして、「I」でまる場合でも、全体の発想は相手を中心にしている。たとえば、「行きます」という英語の正しい訳は、「I am camming.」であって、決して、「I am going.」ではない。
英語には敬語や謙譲語がないといわれる。平等で対等な横社会のせいだと言われたりするが、しかし、「You will have my saport.」という「相手中心」の英語の構造それ自身に、立派に他者を思いやり、他者を尊重する精神が内蔵されているとみることも出来よう。
こうした英語の発想を知ることで、日本語の特性や限界も見えてくる。それは、日本語が「私」を中心とした自己中心性の強い言語だと言うことだ。べつにそれが悪いという意味ではないが、私たちが日常使う母国語のこうした特性を知っておくことは、決して無意味なことだとは言えない。
私たちが外国語を学ぶのは、国際化の時代を迎えて、実用上外国語を学ぶ必要に迫られていることもあるが、より本質的には、外国語を学ぶことで、母国語そのものに対する理解を深めるためである。ゲーテは「外国語を一つも知らない人間は、母国語についても無知な人間である」と言っているが、たしかに私たちは外国語を知ることで、母国語をはじめて客観的にとらえることができるようになる。
(参考文献) 「英語らしさに迫る」 木村哲也 研究社出版
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