橋本裕の日記
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昨日の朝日新聞に、いまは北京に住んでいるモンゴルの詩人・ボヤンヒングの「わたしはモンゴル人」という著書が紹介されていた。この本をボヤンヒングは日本語で書いているようだ。
「ひとりの外国人が日本語で書いた文章をよむ。それがいい文章だと、内向きの日本語の壁がパッと取り払われたような解放感がただよう」と、津野海太郎さんが紹介している。
「僕はモンゴル人として生まれたことは悪くないと思うが、しかし別に過剰な誇りなどまったく持っていない。そうする理由もないのだ。僕はいつも個人単位で生きている。・・・個人は世界の中では小さいが、個人の世界はそれほど小さくない」
モンゴルの人には閉所恐怖症が多いと聞いた。彼らは大草原で自由に暮らしている。大空の下の大地がすべて彼らの家である。だから、死んでからも狭い棺に入れられて土葬されるのをきらうのだろう。風葬が行われているのもむべなるかなである。
それにしても、「個人は世界の中では小さいが、個人の世界はそれほど小さくない」という言葉はなかなかよい。カントは「天上界の星星の法則と、わが内なる道徳律」に無限の価値を見た。そして、私的な存在である国家よりも、公的な存在である個人を神聖だと考えた。
そもそも人間存在を霊的なものと考え、魂のうちに永遠なものを発見したのは、ソクラテスだろう。パスカルによれば、人間は考える葦である。宇宙の中では取るに足りない粟粒でしかないが、しかし、私たちは宇宙をも思考する広大な世界を心の中に持っている。
「個人の世界は遙かに広大で、深遠である」 と私ならこう書きたくなるところを、「個人の世界はそれほど小さくない」と書くあたり、ボヤンヒングはやはりほんとうの詩人で、いかにも奥行きがあって、心憎いという感じがする。彼はきっと、心の中にはるばるとした大地を持っているのだろう。
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