橋本裕の日記
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2001年11月26日(月) 天皇の赤子

 私が昭和天皇を目にしたのは、小学6年生の春だった。天皇が当時私たち一家が住んでいた若狭小浜に行幸され、私たちはご一行が船で港を出られるのを、近くの突堤から、日の丸の旗を振ってお見送りした。

 天皇は帽子を持ち上げ、私たちに何度も会釈された。その様子に私はたいへん親しみを覚えた。うらうらとして快い春の日差しを浴びて、天皇を載せた船が遠ざかるのを、私たちはのどかな心で見送った覚えがある。

 これは戦後の話だが、戦前も天皇は各地に行幸されたようだ。たとえばこんなエピソードを昭和天皇の侍従次長だった木下道雄が、「宮中見聞録」のなかで紹介している。

 昭和6(1921)年11月19日午後6時半、軍艦榛名は鹿児島湾内をまっすぐに南下していた。熊本での陸軍大演習の後、お帰りになる昭和天皇を鹿児島から横須賀までお送りする航海だった。その船に、木下氏は行幸事務を主管する宮内大臣官房総務課長として乗船していた。

 夕食中、木下氏は見送りの船でも来たら済まないと思って、後甲板に出てみた。日は暮れて、月もなく、左舷の大隅半島、右舷の薩摩半島の山々も10余キロの彼方、夕闇の中にほの暗く見えるのみで、灯りのない後甲板は薄暗かった。

 誰もいないと思っていたところが、右舷のてすりの所に西を向いて、挙手敬礼をして立っている一人の人の後ろ姿があった。近づいてみると、その人は昭和天皇だったという。

 何か見えるのかと、木下氏が近くの望遠鏡を覗いてみると、薩摩半島の海岸線一帯に延々と果てしなく続く赤い紐のようなものが見える。山上にも明かりが見える。薩摩半島の村々の人々が、ちょうちんやたいまつを持って、こぞって陛下をお見送りしているらしい。

 陛下はこれを望遠鏡で見つけられ、ただお一人、挙手の礼で沿岸一帯の人々にご挨拶をされていたらしい。木下氏は艦長室に走り、すべての探照灯をつけてもらうよう頼んだ。こうして、6機の探照灯がこうこうと左は大隅半島、右は薩摩半島の山や空や海をくまなく撫で回した。

 それから後に木下氏は30年以上もたった昭和39年のある日、指宿にある九州大学の植物園を訪ねた折りに、この話を園長にしたところ、園長自身、その頃、提灯を持って、海岸に立っていたという記憶があるという。

 軍艦の姿は見えなかったが、はるかに見える灯火を見送っていたところ、突如、こうこうたる探照灯が照らされ、あちこちの村々から集まってきた数千、数万の群衆は、思わず歓声を上げ、その光の中に互いに手をとり合って歓んだのだという。

 1889年に発布された大日本帝国憲法は第1条で「万世一系ノ天皇之を統治ス」と規定している。天皇は「神聖不可侵の主権者」として立法、司法、行政の3権を総攬するほか、陸海軍の大元帥として統帥権を持つ絶対権力だった。

 さらに昭和に入って天皇の神格化は進行。天皇は「現人神」とされ、国民は「天皇の赤子(せきし、赤ん坊」と呼ばれた。しかし、天皇制を作り上げた明治の元勲は、天皇を神だとは思っていなかった。ただ、国を統治するための便宜でしかなかったからだ。そのことを一番よく知っていたのは、天皇ご自身だったのだろう。

 小学生の私はいつか大人になり、天皇の赤子だった日本の民衆が、どんな野蛮な戦争にかり出され、他国の人々を苦しめ、また己自身も悲惨な死に方をしたかを知った。そうすると、あのうららかな春の日差しのなかに佇んでいた小柄な人のよさそうな老人の姿が、また違った印象で胸に迫ってくる。

(木下氏の話は、私が愛読している伊勢雅臣さんのメールマガジン「国際派日本人養成講座」に掲載された「まごころの通い路」の中に紹介されいる。文章もほとんどそのまま引用させていただいた)


橋本裕 |MAILHomePage

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