橋本裕の日記
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2001年11月25日(日) 精神の安楽主義

 ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」のなかに、「大審問官の話」がでてくる。一度読んだら忘れられないのは、ここに人間社会の恐ろしい真実がえぐり出されているからだろう。先ずはイヴァン・カラマーゾフの語る「大審問官の話」を紹介しておこう。この作中劇の舞台は、16世紀のセビリアということになっている。

 大審問官は、町に現れたキリストとおぼしき人物を捕らえて、「人間という哀れな生物は、生まれ落ちるときから授かっている自由の賜を譲り渡すべき人を、少しも早く見つけねばならぬ。この心配ほど人間にとって苦しいものはない」と語りかける。

 「われわれが素直に人間の無力を察して、やさしくその重荷を減らしてやり、いくじのない本性を思いやって、われわれの許しを得たうえなら、悪い行いすら大目に見ることにしたのは、はたして人類を愛したことにならぬだろうか?」

「われわれの仲間はおまえ(キリスト)ではなく、きやつ(悪魔)なのだ。これが我々の秘密なのだ。われわれはもうずっと前から、もう八百年の間おまえを捨てて、きやつといっしょになっているのだ。・・・われわれはきやつの手からローマとケーザルの剣を受け取って、われわれのみが地上における唯一の王者だと宣言した」

「全世界とケーザルの緋袍を取ってこそ、はじめて世界的王国を建設して、世界的平和を定めることが出来るのだ。なぜというに、人間の良心を支配し、かつそのパンをもろ手に握っている者でなくて、だれに人間を支配することができよう」

「羊の群をばらばらにして、案内も知らぬ道に別れ別れに追い散らしたのはだれだ。しかし、羊の群もまた再び集められて、こんどこそ永久におとなしくなるであろう。・・・我々は彼らに向かって、おまえたちはいくじのないもので、ほんの哀れな子ども同然だ、そして子どもの幸福ほど甘いものはない、と言ってやる」

「われわれはいっさいを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。なぜと言うに、これによって大きな心配からのがれることもできるし、今のように自分自身で自由に解決するという、恐ろしい苦痛もまぬがれることができるからだ」

「こうして、すべての者は、幾百万というすべての人間は幸福になるであろう。しかし、彼らを統率する幾十万かの者は、それから除外されるのだ。つまり、秘密を保持しているわれわればかりは、不幸に陥らねばならないのだ」

「わしがちょっと手を振ってみせると、われさきにとおまえを焼くべき薪の下に、真っ赤な炭をくべようと殺到するだろう。それは、つまり、おまえがわれわれの邪魔をしに来たからだ。じっさい、もしだれか一番われわれの火刑に価するものがあるとすれば、それは正しくお前なのだ」

 大審問官は、この世の中は「何億かの幸福な幼児」である大多数の人間と、「善悪知識の呪いを背負うた大受難者」である一部の選良から出来ていると語る。選良は永遠の天国の報いなどどこにもないとをよく知り抜いている。しかし善知識であるところの彼等は、「この秘密を守って、幼子達の幸福のために、永遠の天国の報いを持って彼等を釣って」行かなければならない。

 作中のキリストは、この大審問官の言葉に、何と答えるだろう。読み進んできた読者は思わず息を呑んで、その先を読もうとするだろう。しかしその結末は、いささかあっけないものだ。

 作中のキリストはただ黙って大審問官を抱き寄せ、老人の「九十年の星霜をへた血の気のない唇に静かに接吻」する。老人はぎくりとするが、平静を装って彼を闇の巷に解き放つ。それから「かの接吻」は大審問官の胸に燃え続けるが、しかし彼はあえて従来の主張を変えようとはしない。

 この部分を読んだひとは、自分がいわゆる「何億かの幸福な幼児」になる訳がないと思うかもしれない。しかし、事態は大審問官の時代からさらに悪化してるのではないだろうか。私たちは科学技術全盛の時代にあってむしろ「幼子の幸福」に安住することにますます不感症になりつつあるように思われるからだ。

 あくなき消費活動やブランド信仰、物質的享楽のなかに、体勢に順応し付和雷同する「精神の安楽死」志向を容易に見て取ることが出来よう。 「独立自尊」などと、簡単に言ってみても、何事も自分で独自に考え、判断し、決断するということは大変なことである。

 私たちは大審問官がいうように、自由の賜を譲り渡すべき対象を一刻も早く見つけて、自己責任の重圧から逃れようとする。そしてそれが宗教であったり、会社での奴隷労働だったり、もしくは地位や名誉や富や権力であったりするわけだ。

 戦前の日本人はまさしく天皇制のなかで精神の隷属状態におかれ、自ら考えることを停止して、「精神の安楽」を謳歌していた。大本営発表の嘘八百を、多くの国民は歓呼して迎えたのである。戦後の日本でも、私たちの多くは自由の重荷を逃れ、真実を直視する勇気を持たず、ただただ安楽に走り、与えられた幻想のなかで、「幸福な幼児」のごとく保護されていたいと願望している。

 あるいは「国民主権」を標榜する民主主義でさえも、代議制度の中では、この「自由なき安楽主義」に容易に傾く。私たちはこうした大量に安楽死した精神がもたらす将来の危機に対して、もう少し鋭敏にならなければならない。困ったことにドストエフスキーの「大審問官の話」は、現代にあってますます不気味に魅力的である。

(参考文献)  「カラマーゾフの兄弟」 米川正夫訳 河出書房新社


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