橋本裕の日記
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2001年11月20日(火) 教育亡国

 数学者で京大教授の上野健爾さんの著書「誰が数学嫌いにしたのか」(日本評論社)に、教育者・林竹二(宮城教育大学学長)のことが書いてある。私はこの高名な教育者の著書をほとんど読んだことがない。孫引きになるが、林さんの「教育亡国」(ちくま学芸文庫)から、文章を少し引いておこう。

「私は今、学校は教育の場でなくなったと思っています。それは、学校教育というものが、テストを中心に回転するような体勢・制度になっていることが根本の原因だと思います。何故教師の側からこの体勢と戦いが生まれてこないのか不思議でなりません。これが、日本の学校が教育の場でなくなったということであり、そこで恐るべき環境破壊が行われてしまったということです」

「環境が根本から破壊されれば、人間も狂い死にもする。子どもの自殺はこの狂い死にです。だから非行とか暴力とかのレッテルを世間で貼る狂気の現象はすべて学校が点数信仰や学力万能の迷信による環境破壊を受けて、根底からの環境破壊が起きてしまった、そこからの当然の帰結なのです。このことに一番鈍感なのが、教育行政をはじめ学校教育の当事者です。日本の学校はとっくに教育の場であることをやめてしまっている。そこに非教育あるいは反教育がまかり通っている」

「教育亡国」が出版されたのが1983年で、林さんは二年後の1985年に亡くなっている。「教育亡国」を息をつかずに読んだ上野さんは、この書を林さんの深い思いをこめられた「遺書」ではないかという。そして「責任を持つものは責任をとらなければならない」という一言に、林竹二の生涯が言い尽くされているようだと言う。上野さんの「誰が数学嫌いにしたのか」から引用しておこう。

「私自身、高校の数学の先生とのかかわり合いからも、またあまりにお粗末な現行の学習指導要領ができるのを許してしまった一数学者としての責任からも、数学教育について発言する機会が次第に多くなってきた。その際常に頭に浮かんでくるのは、林竹二である。彼との不思議な出会いがなかったら、私も数学教育に関して、ただ知識をいかに伝えるかの問題に終始して、教育の根本問題に至ることはなかったであろうと思う」

「彼の苦闘の記録、それは子供たちの深いところにしまわれている魂を引き出し、その美しさに彼自身が魅せられて学んでいった記録に他ならない。・・・責任を果たすために戦うことは、また学ぶことでもある。教えることは学ぶことでもあるという自覚が多くの教師に生まれれば、この教育の荒廃を救う道が開けよう。林竹二の戦いは私たちに多くの勇気を与えてくれる。しかし、残された時間は少ない」

 林竹二は「教育の根底にあるもの」の中で、「教育がなくて調教だけが教育の名においてまかり通っている。そして、もっと恐ろしいことは、教師たちがそのいいようもない無惨な荒廃に直面しながら、それを異常と感じていないことである」と書いている。異常を異常と感じること、私たち教師に求めれているのは、こうしたまっとうな感性であり、自ら自身の荒廃と戦う勇気なのだろう。


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