橋本裕の日記
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昨日「英語の正しい学習法」という話をしたので、今日は本職の話をしよう。題して「数学の学習法」である。もっとも、私がここで言う数学は受験数学のことではない。だから、中学や高校の試験の成績をあげたり、大学に合格するためにどれだけ役にたつか、保証の限りではない。だから、「正しい学習法」とは書かなかった。
ただ、私自身こうした学習法で、なんとか大学には合格できたし、その後大学、大学院と進んで、数学が苦手だと感じたことはない。そして、今もこうして高校で数学を教えている。できれば今後「ガロアの理論」や「相対性理論」を研究して、「たのしい数学」といった入門書を書きたいという夢も持っている。そのくらい数学が好きになれたのだから、私自身は「正しい学習法」ではないかと思っている。
さて、私が実践してきた「数学の勉強法」だが、それはただ、「自分の頭で考える」という一事につきる。高校時代、私はあまり受験問題を解かなかった。そのかわり、私はイギリスの数学者で哲学者であるバートランド・ラッセルの「数理哲学序説」といった本を読んで、いろいろと自分の頭で考えた。
ラッセルの本は簡単にいえば「何故1+2=3が成り立つのか」ということを厳密に考察した本である。こうした本をいくら読んでも、計算力はつかない。だから私の高校時代の数学の成績はぱっとしなかった。ただ、ものごとを本質的に精密に考える習慣がやしなわれるから、大学へ入って、カルチャーショックに見舞われることはなかった。
高校の授業よりも、大学の授業の方がよくわかるのである。おかげで、高校の受験数学の発想から抜け出せない級友たちを尻目に、大学の最初の数学の試験で最高点をいただいた。「大学の数学とは何というありがたいものか」としみじみ思ったものだ。
数学には「公理」や「定理」があり、「証明」がある。しかしそれらを暗記することが「数学の勉強」ではない。私たちが数学を学ぶ目的は、あくまでも「物事を論理的に考える力」を養成することである。高校時代の私は、そんな理屈は知らないものの、知らず知らずに思考力を鍛えるために有効な学習法を実践していたようだ。
最近、生徒の計算力が落ちているという話を聞く。たとえば、「分数ができない大学生」という本を読むと、分数計算のできない大学生がかなりいることがわかる。しかし私は「大学生が分数計算などできなくてもよいのではないか」と思っている。
こまごまとした分数計算など実生活で役にたたないし、だいいち、こうしたことは、数学的能力とはあまり関係がない。分数や小数の面倒な計算問題で数学力をテストするのは無意味だろう。小学生の段階ではそれもいいが、少なくとも大学生の数学力をこうしたもので測るべきではない。
数学は数や図形といった単純で抽象的な素材を対象にする。そしてそうしたシンプルな素材を相手にして、いろいろとその性質や関係性を研究するなかで、「論理的思考力」を鍛える。そうして獲得された体系的な思考力は、数や図形といった抽象的な世界を離れて、はるかに複雑な現実世界を理解するときに、大いに真価を発揮する。
数学を単に数や図形の学問だと考えてはいけない。本当に有能な政治家や経営者や弁護士は、このことを知っている。だからリンカーンやガンジーやチャーチルの愛読書が「ユークリッドの原論」であったりしたわけだ。ギリシャ人の書いた数学の教科書が聖書につぐベストセラーであり続け、この2000年間、まっとうにものを考えようとする人にとっての必読書だったわけだ。
本当の数学力は、論理的に筋の通った文章が書けるかどうか、そして自分で独自に主題を構想する力があるかないかで測られる。だから、数学は言語力の一部とみなしたほうがよい。数学はもっとも根源的な言語力であり、したがってそれは文化的な社会を築くうえで、もっとも尊重されるべき教養だということができる。
もうひとつ自由で平和な社会を築くために本質的なことを書いておきたい。民主主義は自立した個人の意志によって支えられる。それではこの個人の「独立自尊」は何によって支えられるのだろうか。それは付和雷同することなく、何が真実であるか自分の頭で考えること、つまり「思考の自立」によってもたらされる。民主主義の原点が「自分自身の頭で考えること」にあるのだとすると、それは「数学が民主主義の原点」だということに他ならない。
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