橋本裕の日記
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「日本の文学者には数学嫌いが、というより数学嫌いを誇りとするような人が多いようだ」と、数学者の遠山啓さんが書いている。たしかにそのとおりで、文学者の中には数学が出来なくて進学を断念したり、学校を中退した者が多い。
曽我綾子は私がもっとも嫌いな作家のひとりだが、「私は2次方程式もろくにできないけれども、65歳になる今日まで全然不自由しなかった」と公言しているようである。
三浦朱門氏は教育課程審議会長のころ、雑誌記事『教育、今後の方向』の中で、この曽我綾子の言葉を紹介した後、「教科のエゴをなくすために、たとえば数学では曾野綾子のような数学嫌いの委員を半数以上含めて数学の教科内容の厳選を行う必要がある」と公言している。
そして、この発言から1年2ヶ月ほどたって教課審の審議のまとめが出され、2次方程式の解の公式は中学数学から姿を消すことになった。京都大学の上野健爾さんはこのことについて、次のように述べている。
「この発言が2次方程式でなくてたとえば『私は理科が大嫌いで、地動説は日常生活で必要としなかったから教える必要はない』という発言であったらどうであったろうか。この三浦朱門氏の発言にマスコミはおろか数学教育関係者までだれ一人として公的に反論した話を聞かないのは、わが国の数学が置かれている立場を語って余りある事実であろう」 日本の文学者のなかで、最も数学的センスを感じさせるのは誰だろうか。宮沢賢治はその最右翼ではないだろうか。再び遠山さんの文章をひいておこう。遠山さんは宮沢賢治はすぐれた数学者にさえなれる人だったと書いた後、こう続けている。
「その理由をあげると、まず第一に彼の作品のすみずみまで漲っている宇宙的といってよいほどのスケールの大きな想像力である。それは数学という学問の核心となっている構想力に近いものである。
第二は並外れた集中力である。あのような作品を創り出すには、炭素をダイヤモンドへ結晶させるときの高圧に匹敵するほどの精神的集中力が働いているにちがいない。
その集中力も数学者にとって欠くことのできないものである。もし、彼がアインシュタインの壮麗な宇宙論を知ったとしたら、あの宇宙詩「銀河鉄道の夜」よりもっとすばらしい作品を残してくれたかも知れない」
それにしても日本という国は不思議な国である。数学にまるで理解のない人たちが、あたかも文化人の代表として優遇され、しかも数学の教育内容を決定する権利を有している。こういう国に未来があるとは思えない。
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